レオポルド ショヴォー, L´eopold Chauveau, 出口 裕弘
子どもを食べる大きな木の話―ショヴォー氏とルノー君のお話集〈2〉

ショヴォーに初めて出会ったのは、大学のとき。

浜松町の本屋さんで、時間を潰していた時の事だった。


ここに載っているのとはちょっと違って、横型の大きくて立派な絵本だった。

色も単色で、その絵にわたしの目はぐっと引き寄せられた。


この魅力的な絵は、ショヴォー本人が描いているという。

しかし、全体的には暗い印象の絵を描くことが多いし、

そう、うまいわけでもない。


けれど、この「子どもを食べる大きな木の話」では、成功している。

木のうろに詰まった子ども達の顔がすてきだ。


基本的にこの人の本は短編集で

ここにもいくつもの話が収められているが

やっぱり、タイトルにもなっている,このお話が

一番好きだな。

P.L. トラヴァース, P.L. Travers, 林 容吉
風にのってきたメアリー・ポピンズ

風にのってきたメアリー・ポピンズ  P・L・トラヴァーズ作  その1



いつもと違う風は、わたしたちに妙な胸騒ぎをおぼえさせる。

何かわからない不安。

もうすぐ起こるかもしれないし、何も起こらないかもしれない。


そう、たいていの場合は、何も起こらない。

ただ、風がふいて通り過ぎて行くだけ。


でも、あるとき、

桜町通り17番地でそれは起こったのだ。

風にのってあのひとがやってきたのだ。

じゅうたんでできた馬鹿でかいバッグをさげて、

オウムの頭のついたこうもりがさを持って。


このお話の魅力のひとつは、マイケルにあると思う。

ジェインとマイケルは、常に一緒に行動するけれども、

とくにマイケルは、

一番最初に、この妙な胸騒ぎを察知する。

そしてそれがほんとになったとき、

実にこどもらしい素直さと感性で、それを受け入れる。


つまり早い話が、メアリー・ポピンズに会ったとたん、

一瞬にして大好きになってしまうのだ。


 新しく来たこのふしぎな人に心をうばわれていたマイケルは、

 もう、だまっていられなくなってしまいました。

 「メアリー・ポピンズ!」とよびました。「いつまでも、いてくれるでしょうね?」

 寝まきの下からは、なんの返事もありません。マイケルは、がまんができなくて、

 「いってしまったりしないでしょ?」と、一生けんめい、言いました。

                                     

(なんて、かわいいマイケル!)


それに対してメアリー・ポピンズは鼻をフフンとならし、ひと言、

「風が変わるまではいましょう。」 というのだった。


このときからずっと、二人の周りで、

次々と楽しいこと、不思議な事が起こっていく間にも、

この風は、吹き続けるのだ。

マイケルの心の中に。ジェインの心の中に。そしてわたしたちの心の中に。



ある日、とうとう風は西に変わる。

切ないほどの思いで、行かないでほしいと願うこどもたち。

そして、メアリー・ポピンズは・・・。




これほどの作品を現実に書いた人がいる、ということ自体が

わたしにとって不思議で、奇妙で、非現実的なことのようにさえ思える。

わたしの周りの大人には、こんなユーモアを解する人間はいなかったように思うし、

幼いころのわたしには、イギリスという国、それ自体が

おとぎの国のようであったのだ。

(いま思えば、スウェーデンの作品も、ドイツの作品も全部イギリスだと

思い込んでたことは否定しない。)                                                           

                                                                                      現実と非現実。 何がほんとうで何がほんとうでないのか。


こういう気持ちになったのは、わたしだけではなくて、実は、

作者であるトラヴァース自身が、こういう事を言っている。


 自分がメアリー・ポピンズを作り出したのではなくて、

 きっと、メアリー・ポピンズが自分のことを作りだしたのかもしれない、と。



すっかり大人になってしまった今でも、

あの頃のようにまた、

期待と不安の入り混じった

妙な(でも決していやではない)思いに浸りたい時は、

いつでも、また、あの赤い本の扉をひらいて、

しばし、東の風に吹かれてみるのだ。

エリナー ファージョン, Eleanor Farjeon, 石井 桃子
ムギと王さま―本の小べや〈1〉

エリナー・ファージョン 作 「ムギと王さま」


この本に出会ったのは、私が12歳

小学6年生のときだ。

びっくりした。興奮した。

何もかもが、私のために書かれているかのように思われたからだ。


琴線にふれるという言葉があるけれど、まさにそれだった。

その当時、もちろんそんな言葉は知らなかったけれど。


当時わたしは、学校図書館の中で自分が面白そうだ、と

目をつけていた本は大抵読みつくしていた。(と思っていた。)

わたしが面白そうだと思う基準は簡単で、

決め手となるのは、タイトルと挿絵だった。


ところが、最初、この本はタイトルもつまらなそうだったし、

表紙の絵も好きではなかった。

お気に入りの岩波文庫の並ぶ書棚の中でも、目に入ってはいても

いつも素通りしていた。


しかし、もう読むものが尽きている以上そうは言っていられない。

わたしは、ついにこの本を手に取り、開いた。


そこには!


自分がいたのだ。

としか言いようが無い。いま考えても。


それから、何度あのまえがきを読み返したことだろう。


 わたくしが子どものころ住んでいた家には、

 わたくしたちが「本の小部屋」とよんでいた部屋がありました。

 ・・・本なしで生活するよりも、着るものなしでいるほうが、

 自然にさえ思われました。そして、また本を読まないでいることは、

 たべないでいるのとおなじくらい不自然に。


アーディーゾニの描く、一心に本を読みふけるこどもの絵。

そこから始まる流れるような文章に誘われて

いつのまにかわたしは、幼い日のエリナーが過ごした

あの本の小部屋にトリップしていた。

 

 あのほこりっぽい本の部屋のまどは、あけたことがありませんでした。

 そのガラスをとおして、夏の日はすすけた光のたばになってさしこみ、

 金色のほこりが、ひかりのなかでおどったり、キラキラしたりしました。

 わたくしに魔法のまどをあけてみせてくれたのは、この部屋です。


そして、印象的なエミリー・ディッキンソンの詩の引用があり、

邦題となっている「ムギと王さま」へとつづく。


このとき、わたしは気がついた。

そう、この本は短編集だったのだ。



短編集!!!


正直、分厚い本や何巻も続くような本は苦手だったため、

この事実に関しても、わたしは大いに感激し、よろこんだ。

(レベルの低い話で申し訳ない。)

この時までわたしには、

世の中に短編集なるものがあるという認識が無く、

その事実を知ったという感動は、(この12歳の少女にとって)

非常に大きいものだったのだ。


決して、背表紙の分厚い本だからといって、

最初から自分には無理、とあきらめることはない。

世の中には短編集というものがあるのだ!


強い味方が出来たような気持ちだった。


12歳のわたしは、「ムギと王さま」、

そして、「月がほしいと王女さまがないた」と

読み進む。

びっくりした。全然、タイプの違う話。

至るところにちりばめられたナンセンス。

意表をつかれ、声をあげて笑った。

なんじゃ、これ。

いいのか?こんなにばかばかしくて。

しかも、とてもセンスがいい。


王女さまを誘拐した容疑をかけられた少年をたったひとり逮捕するために、

王様の連隊長は、剣をつけ、拍車をつけ、肩章をつけ、くん章をつけて、

全ての兵隊にこう言うのだ。


「一週間の休暇をやるから、おかあさんにさよならをしてくるように。」


あなどれない、

あなどれないぞ、子どもの本。


そのころ

大人の入り口に差し掛かっていた私は、

もうそろそろ童話の世界ともお別れかな・・・と

漠然と思い始めていた。


それが、この瞬間、あきらかに踏みとどまり、

Uターンしたのである。

それから、今に至るまで子どもの本から

卒業しないいままに

暮らしている。



アーディゾーニのペン描きの挿絵は、

どれも見るたび私の心を捕らえてキュンとさせる。

胸とかそういう浅い部分ではなくて、

心が、反応する。 だいすきだ。


ハードカバーの方の表紙だけは、

やっぱり、いただけないけれど(たぶん、色の問題だと思うが)

それも、もう今は新しい装丁に変わっている。


ファージョンのお話には、アーディゾーニの挿絵以外考えられない。

クマのプーさんの挿絵がシェパード以外ありえないように。


さて、最後にこの本の中で、わたしが特にすきなお話をご紹介。


 「西ノ森」 

 「小さな仕立て屋さん」 

 「ねんねこはおどる」

 「サン・フェアリー・アン」


興味を持たれた方は、ぜひ読んでみて。