随分と過去の出来事です。
暴力的な表記や、心の機微に触れる表現がある場合があります。
今現在は回復しており、元気に幸せに暮らしています。

 


15年ほど前の私は、結婚していてお腹に赤ちゃんがいた。


ここで見るプレ花ジャンルやマタニティライフの人達みたいに、キラキラと希望に満ちて、初めてのことに戸惑いながらも全部が楽しくて、、、


なんて


私はそんな眩しい世界にはいなかった。


結婚を意識して同棲を始めた人から初めて暴力を受けた日、2人はかなり酔っ払っていて私はお酒のせいにしてしまった。


書くに耐えない内容なのでその時のことを記すのは避けるけれど、今ならば分かる。見過ごすことなど到底できる内容ではないことを。


私自身とても気が強く、口が立つ方で譲ることを知らない若気の至りもあり。喧嘩の発端に反省したのもあった。


しばらくしてすぐに妊娠が分かり、産むだ産まないだと一悶着あったけれど私の意思は固かった。


何を言われても産む。


私の両親、特に母は最後まで反対した。
(この当時は暴力があったことなどは一切知らせていませんでした)


安定期に入った頃、だいたい週の半分は当時の主人と喧嘩をしていて、その喧嘩が時には一線を超える事もあり。


覚えているだけでも3回はご近所から警察を呼ばれた。


飲みさしの缶ビールを投げつけられて頬が切れ、アルコールでびちゃびちゃのまま、秋の夜中に玄関へ放り出されたり。(妊娠中)


出先の車内で喧嘩になり、交通量の多い大通りで助手席から引き摺り下ろされて置いてけぼりにされたり。(妊娠中)


人は辛い記憶をできる限り消すもので、思い出せるエピソードは少なくその時の感情もポッカリと抜けてしまっている。


悪阻と戦い、身重の体を抱えて、臨月まで仕事を続けながら、朝、夜と食事を準備し昼は弁当を持たせ


洗濯に掃除に買い物に。家事は一人で全てこなした。


理不尽で許容できない束縛、強烈な言葉の暴力と態度、物を投げる、つかまれ押し付けられるなどの日常を振り下ろされる日々。


無心で日々を過ごしていた。のだと思う。振り返れば。
心を殺さないと、生きていけなかった。


出勤前に慌しくその人の洗濯物を物干し竿にかけた時


ふと見上げた空が真っ青で、私はその空の青さが、明るさが、光の強さが痛くて、あんまりに美しくて。空虚な自分に遠慮なく不躾に刺しつけてくるみたいで


涙がボロボロとこぼれたのを覚えている。


感情が、渋滞していた。


その涙を拭って、仕事に行かなくてはと車に乗り込みしばらくした時に私は気づいたのだ


世界に色が無くなってしまったことに。


それでも私の心は動かなかった。あぁ、色がわたしから去って行ってしまった。そう思い目線を伏せただけだった。


不思議と信号が何色かとか、着ている服の色とか、脳では認識ができる。


ただ、自分の目には白黒のようなセピアのような、そんな風にしか映らなくなってしまった。


数ヶ月だったのか数週間だったのか、定かではないけれどこの現象はしばらく続いた。


今振り返ると、これが私の初めての精神疾患だったのだと思う。


ただこの時は認識していなかった。


切りつけられれば血が出るのと同じ、自分の視界が色を無くすのも、これだけ全てが痛いのだから、当然なのだろう。そのようにしか考えられなくなっていた。









思い起こして出来る限り過激な表現は避けてみましたが、、大丈夫でしたでしょうか。あまり削ると記憶とは別のものになってしまうこともあり、それは私の振り返りと異なってしまうので本来の意味をなくすこともあり、、




今、只々思うのは、この頃の私を全力で抱きしめてあげたい。そう思います。

あなたはすごく頑張っているということを教えてあげたい。すごくすごく、頑張っているんだと。

もっと楽に生きることが、自分の大切な人の幸せであることも教えてあげたい。

自分が苦しめばそれでせめて大切な人たちは笑っていられる。そんな情けのない知恵のないことを思っていたと思います。

若いことは決して悪いことではない、無知な事が決して悪いことではない。
だからと言って、それを補おうと自分を傷つけたままにしておくことは、許されることではない。
そう、自分が一番、許しちゃいけないんだよ。

そう言って抱きしめてあげたい思いです。