みなさま、おはようございますニコニコ

 

また読んで頂きありがとうございます。

取り止めのないことをいつも考えて書いています。

 

今日は、中秋の名月だそうです。

先日、月の名前の本をパラパラみていましたが、その中に万葉集の中の和歌が載っていました。和歌ってなんだかロマンティックで切ない感じがしますね。

全部風流に感じるのは、文字の制限があるなかで言葉選びをして、言葉遊びをするという知性を感じさせるものだからでしょうか。

 

京都の書店の入り口には、京都が特集された雑誌が置かれているのを見かけます。

これは誰に向けてるんですか?

まだまだ京都初心者の私は気になってしまいます。

 

・美容室とか、カフェとか、ホテルとかに置いてあってお客さんに向けてのものなのか?

・それとも京都の人は京都が好きで京都特集の雑誌を買うのか?

・はたまた、ビジネスできた方がたまたま時間ができたから京都散策でもしてみようかという人のためのものなのか?

・または慌てていたのでガイドブックを買い忘れて京都についてガイドブックとか買おうと思っている方のためのものなのか?

 

んーわかりません。

 

ところで、気がついたらやっていることはなんですか?

好きなことはなんですか?

お金になるかならないかは一旦外してみるなら何をしますか?

 

子供の頃ってなんでも自由に描いていましたよね。

画用紙からはみ出ても気にしない、色もめちゃくちゃで、なんなのかよくわからないものを描いていましたよね。

それなのに、大人になると例えば岡本太郎さんみたいに自由に描けなくなっていますよね。

映画 魔女の宅急便で流れる松任谷由実さんの「やさしさに包まれたなら」を思い出しました。

これはどういうことなんだろう。

なんか悔しいです。

 

 

私は3歳からエレクトーンを習っていたことから、どこにいても鍵盤が頭に思い浮かびます。

小学生の時、ホームルームの時に、気がついたら机の上に鍵盤があるかのように思えて、頭の中にメロディが流れているので夢中になって弾いていたことがあり、注意されました。

そうですよね、ホームルームの時間ということも忘れるくらい、側から見ると何もない机で指を動かして頭の中はどっか行っちゃってる小学生、変ですよね。

そんななんかおかしな事をしていました。

だから、グッズとかでピアノとか鍵盤とかのものをもらった時、昔は大切にしていました。

そんなことを、あるカフェに行った時に思い出しました。

マグカップが鍵盤になっており、お皿がグランドピアノの形をしています。

ようかんも鍵盤になっていました。写真の黒っぽいものがそうですが、3種類全部食べたいと欲張ったため鍵盤のようかんは一切れサイズになっています。

お店の中にはちょっとわざと大きめにジャズが流れているのですが、静かなカフェでなきゃ落ち着かない方以外は、気にならないくらいです。

むしろ、この曲カッコイイなとか思うようになります。ただし、ジャズが嫌いな方はそう思わないかもしれません。

 

 

根性論はもう時代にそぐわないとか言われますが、努力することやメンタル強くすることとなんとなく違いはわかりますが、言語化しようとすると行き詰まってしまいます。

根性と努力について調べてみると、

 

根性とは、「その人の性質全般をつらぬく、根本的な(強い)性質。」

 

努力とは、「目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。」

 

参照:Oxford Languages

 

何事も続けることが大切で、続けるうちに自分なりにたくさんの気づきがあって、もっと知りたいから勉強するようになって、でも迷ったとき、つまづいたとき、決断が難しいとき、失敗したとき、それでもまた修正して続けられるメンタルの強さは持ち合わせていないと続けられない。

それは根性があるということなのか、そもそも根性論について私がよくわかっていないのか、なんだかわからないなります。

 

 

なぜか旅行の時や、お出かけの前は早起きできる確率が上がりますよね。

苦手な早起きも、旅行や朝早くからの用事の時に早く起きたことを利用して、次の日もやってみます。そうすると、あまり労力をかけることなく起きれます。

極力頑張らない。

最小限の努力でなんとかやりきりたい。

そうやって、ちっちゃなきっかけを使って続けることをやっています。

たまに夜の涼しい時間に月が出ている頃のお散歩もいいし、

朝、涼しくて静かな時のお散歩は気持ちがいい。

そんな、ちょっと心が動いた感情を次に繋げていくのです。

 

 

全く関係ないお話ですが。

イヤホンで外の音が聞こえない状態になっていたとき、もし誰かが助けてと叫んでたら、それに気がつけるのか、もしかしたらそのSOSを聴き逃しているんじゃないかって罪悪感を持つことがあります。

駅でぐったりした人を見て駅員さんにお知らせしたり、逆に自分がぐったりして座っていて駅員さんに助けてもらったりしたことがあります。

そういう目に見えるわかりやすいものは、誰かを呼びにいくことができます。

ですが、見えない叫びはどう気がつけばいいのかわかりません。

以前住んでいた近くで「殺されるー」と一度だけ叫び声が聞こえたけど、どこから聞こえたのかわからずに何もできなかったことがあります。気になってしばらく新聞やニュースを確認していました。

何が出来るというわけではないですが、時々、そのことを思い出してしまいます。

 

 

それでは今日もbonne journéeウインク