lioserhandsig1970のブログ

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こんにちは。お世話になります。よろしくね。高野山奥の院。よいしょよいしょ。好きなもの目指してテクテクするのは幸せだー。「上杉謙信霊屋」上杉謙信と景勝の廟墓です。「『謙信』の名は、1574(天正2)年45歳で上洛した時、高野山にも訪れて、その時に贈られた法名といわれています。位牌刻名には、下記のように記されています。(右)『為権大僧都法印謙信』(謙信)(左)『為権大僧都法印宗心』(景勝)」(以上現地説明書)建物は江戸時代初期のものと推測され、小規模ながら霊屋としては古い時代に属するとか。内部には格天井(こうしてんじょう)を張り、須弥壇上には二基の石碑を納めています。昭和41年の解体修理時に、銅板葺から檜皮葺にしたことで、建築当時の姿に戻りました。(現地説明書より)格天井(こうしてんじょう)は、これ。(浦嶋神社)神社と違って壁は黒色。さて、上杉謙信といえば、武田信玄。武田信玄・勝頼の墓所。「戦国武将らしく簡素な墓石は、豪華を誇る上杉家の霊廟に比べ、却って心に迫るものがある」(現地説明書)向かって左が信玄。右が勝頼。信玄の碑面表「恵林殿」。裏「天正元年(※1573年)4月12日逝去」。勝頼の碑面表「法泉殿」。裏「天正10年(※1582年)3月11日逝去」。菩提所は成慶院。諏訪氏の通字である「頼」を冠する勝頼は、諏訪氏を継ぎ伊那高遠城に配置されます。勝頼が継承したのは諏訪惣領家だと従来は考えられていたものが、菩提所である成慶院に伝来する『甲斐国過去帳』において、勝頼を「高遠頼継の高遠諏訪氏の後継」と記されていることから、勝頼が継承したのは高遠諏訪氏であったと近年は考えられています。(wikipediaより)信州諏訪家墓所もありました。高台にあるこの墓所、大きさと数で周囲を圧倒しております。いつも応援いただきありがとうございます。謙信と信玄。墓所も対照的な二人です。高野山の現地説明書が何度読んでも信玄贔屓に見えるのですがどうでしょう。あ、格天井は「こうしてんじょう」ですよー。「格天丼どーん」ではありませんよー。ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。 戦国時代を追いかけて日本の歴史つまみ食い紀行 ...