熱海にて | 酒場人生覚え書き

熱海にて

その路地を通りかかった時、なんとなく気になる看板が目にとまった。
フッとこみ上げてくる懐かしさに思わずカメラのシャッターを押した。


   


さして急ぐ散策でもないのに、先をせかされてその場を去ったが、遅めの昼飯を

食べ終わってもチェックインの時間まで間がある・・・・何十年ぶりかにくりだした

熱海旅行一日目の昼下がりの頃だった。


熱海に来たのだからまずは『お宮の松』だろう、と海岸まで出て記念写真も撮

ったが、全盛期時代にここらあたりに漂っていた華やぎも、すぐ後ろにそびえ立

つ巨大なリゾート施設の建築現場から聞こえてくる機械音に打ち消されていた。



海岸通りからあらためて熱海温泉の中心域を眺めてみると、全ての建物がホコ

リっぽく薄汚れて見え、そこからは日本有数の温泉地としての活気はまるで感

じられなかった。



表通りからはいった商店街も、お土産の干物を売っている商店を除いて軒並み

シャッターが下ろされ“貸店舗”の張り紙が目立っていた。

ギラギラしたような全盛期を知るだけに、その凋落ぶりに心が痛む思いだった。

その思いが先ほど通りかかった路地裏の、古びた建物の古びた看板を思い出

させた。


あまり乗り気でない連中を促して、おぼろ気な記憶を便りに気になった看板の

店まで戻った。
店の中からは微かにジャズが聞こえてくる・・・・ますます躊躇(とまど)う彼等の

背を押しやるようにして中に入った。


  


狭く薄暗い店内の全ての空間は、全く統一性のない品々によってディスプレイ

され、その混沌とした雰囲気が妙に懐かしさを醸し出している。

カウンターは詰めても5人ぐらい、奥のボックス席は4人、真ん中の壁際には小

さなテーブルを挟んで小さな椅子が2つ。


  

意外だったのはカウンターの中から迎えてくれたのは、古希には手が届こうかと

いうママが、親しげな笑顔で迎い入れてくれたことだったが、何よりも嬉しかった

のは、古色蒼然とした壁からカウンターに向かっている、煤けた“ジョン・コルト

レーン”や“マイルス・ディビス”といつでもセッションが組めるような感じが良い。


聞けば今から45年ほど前に、東京から幼子二人の手をひいて熱海に移り住み

、好きだったジャズ喫茶をこの路地で始めたという。


「ご主人がモダンジャズお好きだったんですか?」


「いえいえ、私ですよ。この店を持ちたいばっかりにサッサと離婚したようなもの

ですわ」


「お子さんお二人を育てながら大変だったでしょう」


「熱海も今ではこんなんですが、良い時期もあったんですよ。多くのホテルがバ

ンドを入れてたから、そのバンドマン達のたまり場になりましてもネ、それで今

でもお昼の12時開店なんですよ。彼等が東京から来るときには新盤りレコード

を持ってきてくれたり“次ぎに来るときまで預けておくよ”なんて置いていってく

れたり・・・・LPレコードが3000円もする時代でしたから、それはそれはありが

たかったですね」



その時代の名残だろうか数100枚を越えるLPが棚いっぱいに積み重ねてあっ

た。
今ではほとんどCDだが、乞われるとLPもかけるという・・・・今はアメリカ製レコ

ード針の入荷を待っている状況らしい。


渋谷・新宿・八重洲の“ダンモ喫茶”をハシゴして、コーヒー一杯で何時間も粘

り続けた若い日の頃を想い出した。
店員に見つからないように、持ち込んだトリスのポケット瓶から、コーヒーの中に

少しばかり垂らし入れてはトロトロ酔いの中で聞く“サラボーン”のハスキーボイ

スに痺れた時代もあった。


「ママ、サラボーンの“枯葉”かけてください・・・・それとウイスキーをワンショット」



ゴーストタウンのような観光地の裏路地で、そこだけが涙が出るほど懐かしく暖

かい場所だった。



ジャズ喫茶 ゆしま
熱海市中央町5-9
電話 0557-81-4704
ママさん:土屋行子