「スタミュ 第3期」

第12話、最終話の感想・・・というか、です。

 

真面目には書いたのですが、

気分を害される方はいると思います。

3期をお好きな方をお読みにならない方がいいです。

 

※ネタバレします。

 

◎「スタミュ 第3期」

 

 

☆第12話の感想というか、思うこと。

 

第3期第12話、最終話は、

星谷、辰己を中心とする14人が綾薙祭でパフォーマンスし、

それを見た華桜会、

主に冬沢と四季が、これまでの確執を解消する、

という話でした。

 

 

 

最終話まで視聴した今、改めて振り返ると、

この第3期は現華桜会の物語だったのだろうと思います。

 

1話から12話まで、

常に華桜会の存在が物語の中心にありました。

星谷や辰己といった「今までの主役達」については、

彼ら自身の願いや意思もないではなかったけれど、

終わってみれば、それらも全て華桜会の確執を解消するという

大きな物語の一部であったような気がします。

 

 

そう振り返ったところで思うのは、

3期に対しての個人的な期待と、実際の作品の間のずれです。

 

個人的に3期に期待していたのは、

星谷達が、この3期の間に、演者として人間として、

更なる成長を遂げる物語でした。

特に、星谷は、(2期の終盤の展開は置いておいて)

まだまだミュージカル俳優として、

特に芝居において、技術的にも精神的にも実力不足です。

1期開始当初では完全素人だった星谷が、

1期、2期を経て、更に3期を通し、

プロへの道筋が見える程度には役者として成長してくれること。

その過程で、他のメンバーも刺激を受け、

互いに切磋琢磨し、役者として人間として皆が成長していく。

そんなミュージカル俳優の卵達の輝かしい青春の姿を、

3期には期待していました。

 

しかし、実際の作品内で描かれたのは

星谷達の上の世代、現華桜会の間の確執でした。

特に中心となって描かれたのは、四季と冬沢のすれ違いです。

天才肌で枠に囚われない自由奔放な思考をする四季と、

秀才肌?で型通りのやり方で優秀さを発揮する冬沢。

同じ「華桜会」として共に「改革」を掲げつつ、

根本的な思考の違いから対立する二人。

そこに冬沢の四季へのコンプレックスも絡み、

二人はどんどんと溝を深めていきました。

四季と冬沢という2トップの人間関係。心理模様。

精神的な隔たりと、対立。そして和解へ。

これが3期によって描かれたものだと思います。

 

観たかったものはミュージカル俳優の卵達の成長でしたが、

描かれていたのは四季と冬沢の人間模様でした。

 

個人的には少し残念ですが、

これは見たかったものと見せたかったものが違った、

というだけの話だろうと納得しました。

 

期待するのは勝手ですが、

作り手が期待通りに作らなければならないことはありません。

これはただ単に、

私の期待と実物に差があった、というだけの話でしょう。

個人的には「スタミュ」はミュージカル俳優を目指す話で

あって欲しかったのですが、

これは私の勝手な願いなので仕方ありません。

 

 

しかし。

それは置いておいても、

この3期に関して不満が多々あるのは事実です。

 

四季と冬沢の人間関係の拗れを描くにしても、

肝心の二人の人物像が最後まで掴み切れなかったこと。

それでも冬沢は比較的内心が描写されていたと思いますが、

しかし、一番問題であったのは何で、どうして蟠りが消えたのか、

最後まで見てもよく掴めませんでした。

彼にとっては学園も伝統も改革もどうでもよく、

ただ四季へのコンプレックスだけが問題だったのでしょうか。

そのコンプレックスも、四季に勝ちたいという思いなのか、

ただライバルとして認めて欲しいという思いなのか、

他にも何かがあるのか、

どこか曖昧で掴めそうで掴めない感触でした。

また、四季に関しては、冬沢以上に曖昧で、

いつも霧の中にいるように不確かな人物という印象でした。

四季が何を大切にし、何を目指し、

冬沢や周囲や学園をどう思っているのか。

何もかもが曖昧模糊として掴めないまま

最終話まできて、結局そのままに終幕を迎えました。

中心となる二人の人物像が掴めない。

そのために二人の間の葛藤や対立にも

いまいち熱を感じることが出来ませんでした。

 

また、その二人に対する描き方の差も腑に落ちませんでした。

作中では、四季と、その四季の肩入れする星谷たちが、

常に肯定的な描き方をされていました。

しかし、星谷たちの行動を客観的に見ると、

学園の秩序を乱し、他者を軽んじて我を通すその行動は、

ただの「我儘」だと思えてなりません。

一期では、伝統で硬直した学園のルールの穴をつく、という、

ギリギリのバランスで成り立っていた「自由」が、

三期では完全に「我儘」に振り切れていました。

本来ならば華桜会トップである四季は、

学園全体のためにその流れを修正しなければなりません。

しかし、四季は星谷たちのために学園全体を無視する

選択をしました。

四季は、星谷たちにとっては救世主かもしれませんが、

学園にとっては暴君です。

その四季の功罪の罪の部分を全く描かず、

ただひたすらに肯定的に描く。

そして、対する冬沢は何事も否定的なイメージで描く。

この描写の不均衡は最後まで腑に落ちませんでした。

 

それに関連する事柄だと思いますが、

三期では、主要キャラとそうでないキャラの扱い、

存在感の差も気になりました。

いわゆる「モブ」。

名前のない、人格の見えない、しかし存在しているキャラクター。

画面上、ストーリー上では、「生きて」いないように見える

モブですが、作品世界の中では確かに「生きて」いるはずです。

画面には映らなくとも、彼らには彼らそれぞれの

意思があり、夢があり、人生があるはずです。

しかし、この三期では、彼らの意思や人生は存在しないかのように

軽く扱われていたように感じました。

星谷や四季の暴走を、ただただ賛美するモブたち。

普通ならば、一部の生徒だけを優遇して

ころころと方針を変えるリーダーには不満が出るはずでしょう。

しかし、不満、批判は一切存在せず、何があっても、

ただただ星谷や四季を肯定するだけの学園生徒たち。

その姿は「ただの駒」としてしか映らず、

彼らの人生はないがしろにされていると感じました。

加えて、学園全体を巻き込んだ四季の不信任投票。

一般生徒も教師たちも、それぞれの意思で一票を投じたはず

ですが、その結果は華桜会の中だけで勝手に反故にされました。

これもまた、モブたちの存在に不誠実だと感じました。

 

四季と冬沢の描写の不均衡。

主要キャラとモブキャラの存在感の格差。

 

これらは、スタミュの長所であり特徴でもあった、

「全ての人物に優しい」「光のアニメ」というイメージ、

その素晴らしさを、自ら捨て去ったように見えました。

とても残念でした。

 

 

 

以上のように、個人的には多々不満の残る三期でした。

しかし、星谷や辰己たちの姿を三期まで見せてもらったこと、

そしてなにより一期という素晴らしい物語を楽しませてもらった

ことは、今でも有難いことだと思っています。

一期は今でも、これからも、好きであり続けると思います。

 

色々書いてしまいましたが、

それだけ思い入れのある作品に出会えたことは

それはそれで幸せなことかもしれません。

 

そう思って締めたいと思います。

 

 

ありがとうございました。