「さらざんまい」
第9話感想その2、です。
9話を観ての考察というか妄想脳内図。
※ネタバレします。
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☆第9話感想その2
いつも通り、9話を観ての考察というか妄想脳内図まとめ。
しかし、クライマックスになってきて加速がつき、
色々なことが二転三転しそうな予感。
脳内妄想図も二転三転どころか、ぐっちゃぐっちゃになりそう・・・。
毎回ぐちゃぐちゃになりそうなので
最終回観てからゆっくり考えた方がいい気もしてきた。
けど・・・まあ・・・なんとなく・・・。
曖昧な部分も多いけれど、
今のところの脳内考察妄想図。
〇愛と欲望について、修正
愛は「与えるもの。献身的で自己犠牲的なもの。自分を殺す」。
欲望は「奪うもの。利己的、自己中心的なもの。他者を殺す」。
ずっと、愛には「愛のつながり」があって、
欲望には「欲望のつながり」があるものだと思っていたが、
9話の誓を見て、
愛は「つながるもの」で、欲望は「つながりを切るもの」
ではないかと思いつく。
誓は欲望側にいる人間。
自分のために他者を利用し、
自分の命のために他人の命を奪う。
他者の命を奪うことにより、他者とのつながりも切れている。
どんどん切れている。
最後に残ったのは悠とのつながりだけになるほど、
切れている。
そして、その最後のつながりさえも切ろうとした。
欲望とは「つながりを切るもの」なのではないだろうか。
思い返せば、
過去、一稀と春河が横断歩道で「切れた」のも、
互いの欲望のためだったし、
一稀と燕太がギクシャクしたのも燕太の欲望のため、
そして、二人と悠が離れたのも悠の欲望のため。
欲望とは「つながりを切る」もののような気がする。
ただ、誓は最後の最後でつながり、
愛を捨てきることが出来なかった。
悠を庇ってしまった。
だから、最後に誓が死んだのは、
愛(つながり)による自己犠牲の死だと思う。
「面倒なもんだなあ、つながりってやつはよぉ」
と本人も言っていたし。
しかし、もし誓があそこで悠を撃っていても、
いずれ誓は死んでいたと思う。
全てのつながりを切れば一人になる。
一人だけでは生きてはいけない。
欲望も極まれば、愛を極めた場合と同様に、
死に至るのではないだろうか。
・・・という図式を描いたけれど、
ここでどうしても釈然としない自分がいるのは、
「人は尻子玉(欲望)でつながっている」
「未来は欲望をつなぐものだけが手に入れる」
などの言葉があるから・・・。
この辺りはまだ保留にして考えよう・・・。
〇欲望をつなぐ
欲望をつなぐといえば、
欲望はつながると愛に昇華されるのではないだろうか。
1~6話までの一稀を考えると、そんなような気がする。
前回までは、一稀の欲望が「偽物」だったためにカウントされず、
今の一稀には6話で手に入れた愛しかない。
と思っていたが、
もしかすると、
「春河とつながりたい」という欲望が、
6話で春河とつながったために愛に変化した、
・・・のではないだろうか。
たったひとつの欲望が、全て愛に変化したため、
今の一稀には愛しかない。
(一稀がかえるTシャツを着用しているのは、
愛だけしかない、バランスを欠いた状態を表していると思う)
1~6話は
一稀の欲望が愛に変化する過程を描いたものだと思う。
〇さらざんまい
欲望をつなぐと愛になるから連想して。
「さらざんまい」は「欲望をつないで愛にする儀式」ではと思う。
尻子玉(欲望)を飲み込んで、
誰かの欲望を三人で共有(つなぐ)。
そのときにとるポーズはサッカー(愛)に関連する
「さらっと」ポーズ。
三人で尻子玉(欲望)を皿(愛)でつないで
サッカーボール(愛)に変化させ、ケッピに転送。
欲望が愛に変化したから、
さらざんまい後の看板も「カワウソ」から「㋐」に変わる。
・・・ということかと思ったり。
ただ、尻子玉だった愛がケッピに転送されて食われると、
カパゾンビが消滅する理由はよく分からない。
愛になってもつながる相手がいないから?
単純に食われたから?
仮説が間違ってるから説も当然ありだけど。
しかし、ここでも「尻子玉でつながる」のイメージが
釈然としない感覚を生み出すような・・・。
うーん・・・。
〇ミサンガ
愛がつながり、欲望がつながりを切る、から連想して。
ミサンガはつながると愛、
切れると欲望を表す?
だとすると、
愛によって叶う願いはあったけれど
(9話の春河と燕太の願い)、
欲望によって叶う願いもあるのだろうか。
「切れることによって叶う願いがある」
と悠?だか誰かが言っていたし。
ミサンガは切れると願いが叶うものだし。
これから最後までに描かれるのは
欲望により切れることで叶う願い・・・??
〇玲央
玲央が「はじまらない おわらない つながらない」の
真ん中に立っていたのは何故だろう。
カワウソ(欲望)が変化した偽物の玲央。
あれは「玲央の欲望」だそうなので、
「玲央の尻子玉」と考えると・・・
えーと・・・
自分の欲望を否定した・・・から?
尻子玉(欲望)を手放す宣言をしたので、
カパゾンビと同じように消滅ポジションに立ったのだろうか?
・・・しかし、玲央と真武には愛もあるし、
複雑に絡み合ってる(色々)ので、よく分からない。
ただ、玲央と真武にはあまり良い未来が見えない・・・。
〇愛から欲望
1~6話までが
一稀を中心に、欲望が愛に変化する過程を描いたものならば、
7話からは
愛が欲望に変化する過程を描くものかもしれないと思う。
7話からは欲望中心に描かれるようになったし。
つながりたいという欲望はつながることで愛になるが、
愛とつながりは至上で永続する、というものではないのだろう。
実際、愛とつながりを手に入れた一稀は今、
それによって燕太や悠と分かりあえていなかったし。
ネット上のどなたかが
「一稀はいつも切れてから気付く」と仰っていて気付いたけれど、
「つながっている」と思うからこそ、
見えなくなるものがあるのだろう。
相手と理解しあえていると思うからこそ、
燕太の欲望が見えないし、悠の欲望が見えない。
つながりたい相手の考えていることが見えない。
だからいつも「切れて」から相手のことが見える。
切れてから燕太の考えていたことを知ったり、
切れてから昔ミサンガをくれたのが悠だと知ったり。
愛が欲望によって切られることで、初めて見えるものがあるのだろう。
欲望が愛に変わり、愛が欲望に変わり、
同時につながりを得たり失ったりする。
ぐるぐると回っていく。
そういう・・・ことが・・・描かれて・・・いくのかな・・・??
と、今のところは思っている。
しかし、やっぱりなんか、釈然としないところがあるなあ・・・。