「メメント」の感想・・・かな?
しばらく前に観たので記憶があまりないけど・・・・・・。
まあ、メモ程度に。
・・・と思って書き始めたら、
無駄に長くなったのことよ・・・。
※ネタバレします。
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愛する妻を強姦ののちに殺された、主人公レナード。
強い復讐の決意を胸に、彼は日々、犯人を捜し続ける。
しかし、妻の殺害時、犯人に暴行を受けたレナードは、
その外傷により、10分しか記憶が保持出来ない、
「前向性健忘」という障害を患っていた。
10分経つと記憶が白紙になる。
自分が数秒前に何を目的とし、何をしていたか、
会っていた人物は誰なのか、ここはどこなのか。
障害になる以前の記憶以外は、
10分で全てが失われてしまう。
そんな状態でも復讐を完遂するため、
夥しい数のメモや、ポラロイドカメラによる写真、
体に刻んだ入れ墨によって、犯人探しを続けるレナードだが・・・。
という、話。・・・か?
10分で記憶がリセットされるため、
メモ、ポラロイドカメラによる写真、入れ墨で
記憶を補おうとするレナードの復讐譚なのです・・・が。
観れば観るほど不安になります。
知り合いのように接してくる数人の人物。
彼らは本当に知り合いなのか。
信じても大丈夫なのか。
騙されてはいないか。
自筆のメモの情報は正確か。
写真の書き込みは正確か。
これから起こす行動は死に直結しないか。
観ていけばいくほど、疑心暗鬼が募ります。
また、作品の構成が特殊なのも
その疑心暗鬼に拍車をかけてきます。
物語を結末から10分ごとに遡っていく構成。
例えば、
場面1が①~③(10分)、
場面2が①~③(10分)、
場面3が①~③(10分)、
とあるとすると、
この作品は、
場面3①~③から始まり、
次に場面2①~③へ、
そして、場面1①~③へと、
10分間隔で遡ります。
視聴者もレナードと同じように過去、過程が分からない状態で、
10分ごと混乱する感覚を共有できる作りです。
それまでの過去、つい10分前の出来事、やりとり、何もかもを、
全て知らないままに進むワンシーンというのは、
不安な気持ちをひどく掻き立てます。
そして。
進んでいくうちに、
少しずつ事実が明らかになり、そのたびに驚かされ、
何ともいえない思いを噛みしめることになるのです・・・が。
何を書いてもネタバレになりそうなので
詳しくは書けませんが、
事実が明らかになればなるほど、
レナードの境遇や、レナード自身、周囲の人間性に、
嫌悪感や悲哀、しかしわずかの共感も抱かされ、
なんとも・・・なんとも不愉快な気分にさせられます。
「胸糞悪い」というやつです。
お好きな方にはお薦めです。
また、最後まで観て思ったことなのですが、
以下、とてもネタバレ。
この作品、「記憶と感覚」という視点で観直してみると、
また面白いのではないかなと思いました。
レナードの回想で語られる「サミー」。
レナードと同じ障害を患っていたために
悲しい人生を送ったサミー。
レナード自身は「愚かなサミー」を反面教師にしようとし、
若干、蔑んでいるようですが・・・。
そのサミーの人生について語られた場面のひとつに、
こんなような言葉がありました。
「サミーは記憶はなくとも感覚は覚えているはず」
この言葉、聞いた当初は理屈が分からずに混乱しました。
記憶が失われたら、感覚も失われるだろう。
どうして感覚だけ残るんだ?と。
が、最後まで観てから改めて考えると、
これこそがレナードにとっての「事実」だったのではないか
と思うようになりました。
「記憶は失われても、感覚は覚えている」
それが、レナードにとっての揺るがない「事実」。
出来事の内容は忘れても、
「妻に対する愛情」
「妻を失った時の悲しみ」
「犯人への怒り」
そういった感覚は忘れていない。
忘れない。
それが「事実」であり「真実」であり、
「外の世界」=客観的事実と繋がっている、普遍のもの。
そうレナードは思っているのです。
「記憶」という客観的世界とダイレクトにつながる、
「他人と共有する事実」は忘れても、
「感覚」という主観的世界のものは忘れない。
そして、感覚は客観的世界にも通じている。
なぜなら感覚は、客観的世界の出来事の影響を受けて
生まれるものだからだ。
だから、自分は記憶ではなく感覚によって
「外の世界」と繋がっている。繋がれる。
そうレナードは信じているのです。
が。
しかし。
最後まで観ると、これは間違っていると分かります。
愛の感覚も、悲しみの感覚も、達成感も、
レナードは全て忘れている(おそらく)。
全て忘れてしまうから、何度でも繰り返す。
何度でも憎み続ける。
何度でも犯人を探し続ける。
何度でもやり直す。
レナードは「記憶」も「感覚」も忘れてしまうのです。
「記憶」も「感覚」も10分ごとに失われ、
そのどちらによっても「外の世界」とは繋がっていないのです。
では何故、レナードは
「感覚は失われず、それによって自分は世界と繋がっている」
と思ったのでしょうか。
それはレナードの中に「感覚」が常にあるから、
ではないでしょうか。
過去の出来事は思い出そうとしても思い出せない。
だから「記憶」は失われている。
しかし、感覚や感情は、
常に自分の内部に存在している実感がある。
何かに触れれば「触れた」という感覚があり、
何か悲しいことがあれば「悲しい」と思う。
感覚や感情は常に自分の中に存在している。
だから、記憶は消えても感覚は残っている。
そして、感覚は「外の世界」と繋がっている。
これがレナードの理屈だったのではないでしょうか。
しかし、実際にはレナードは感覚も失っています。
何かに触れていても、
10分経てば触れていたことを感覚ごと忘れてしまう。
激しい怒りを覚えていても、10分経てば忘れてしまう。
10分経てば、
「それまでの過程を経た感覚」は全て失われるのです。
彼は感覚によっても外の世界と繋がってはいないのです。
ただ、そうだとすると、気にかかることがあります。
ストーリーの中でレナードが一貫して抱き続けている感覚、
というものがあることです。
「失われずに継続している感覚、感情」です。
妻への愛情。
妻を失ったことの悲しみ。
犯人への怒り。
ストーリーの中で、レナードは何度も何度も
これらの感情を言動によって表しています。
自分の中にはこれらの感情がずっと残っているのだと
証明するように繰り返します。
10分で感覚も失われるはずなのに、
何故これらの感覚、感情は失われないのか。
最後まで観ると、その答えが明らかになります。
これらの「継続されている感覚、感情」が失われないのは、
それらがレナードの内的世界からのみ生まれているもの
だからです。
完全なる主観的世界から生まれているものだからです。
要するにレナードの願望です。
レナードが「こうであったらいい」と思う世界像を
そのまま反映しただけのものです。
そのため、レナードが信じているように
「感覚は失われず、外の世界と繋がっている」
ということはありません。
むしろ、この「継続されているとレナードが思っている感覚、感情」は、客観的世界の事実を歪めて彼に認識させています。
外の世界と繋がるどころか、外の世界を歪に変容させて、
彼自身だけの世界を作ってしまっているのです。
そのため、
妻との関係性。
妻の死因。
妻を殺害した犯人。
客観的世界におけるこれらと
「レナードの感覚による世界」におけるこれらは
完全に食い違っています。
(妻との関係性については、恐らく、ですが)
レナードは「自らの願望」という感覚を通してのみ
世界を認識し、その感覚によって「外の世界」を
自分用の世界に作り変えてしまっているのです。
つまり、レナードは、
完全に「自分の世界」に生きているのです。
彼自身はそう思っていなくとも。
この作品は、外的世界に繋がりたいと切望しつつ、
内的世界にしか生きられない男の物語でもあるのです。
ただ。
一つ気になることがあって。
この現象はレナードが記憶障害を患っているから
起こっているものなのでしょうか。
個人的にはそうは思いません。
どこまでが真実かは分かりませんが、
テディが語った、レナードの妻の死因。
あれが本当だとすれば、
妻も「妻の願望」という世界に生きた結果、
ああなったのではないでしょうか。
また、テディやナタリーやその他も、
もしかするとそうなのかもしれません。
最後、レナードは「外の世界はあるはず」というようなことを
思っていますが、本当にそうなんでしょうか。
私たちは各々が各々の願望の世界にしか生きられず、
客観的世界というものに生きることは出来ないのでは
ないでしょうか。
「外の世界」というものは本当にあるのでしょうか。
・・・そういったことも問いかけてくる映画・・・かな・・・と
思ったんですが、
なんか書いているうちによく分からなくなった・・・。
もう書いてる間にすぐ前に書いたことを忘れてそう。
・・・なんだっけ?
とにかく。
そういう視点で観てみても面白いんじゃないかと
思ったんだよってことで。