「PSYCHO-PASS 新編集版」
第十一話の感想です。

十一話の感想というより、
わたしのかんがえるめしあなまきしまさんぞう、です。
自分でも書いてて気持ち悪いなーと思った。
ほんとに。ほんとに。

※ネタバレします。


◎「PSYCHO-PASS 新編集版」
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☆第十一話の感想です。

もう頭ぐちゃぐちゃでわけわかんない。
仕方ないから妄想をそのままぶつけるぞ!
気持ち悪いぞ!
覚悟しろ!!

・・・みたいなテンションでいこう。うん。

あー。
ちなみに知識はほぼなくて、
遥か昔に薄く聞いたこととウィキペディア様を基に
考えてるので、間違ってる可能性が大いにあります。
ごめーんね☆



まず。
槙島はメシアだと思います。

彼の最期が、かのメシアを彷彿とさせるからです。
シビュラ社会の人々の原罪を背負って、
自らゴルゴダの丘に登り、十字架にかけられたメシア。

ただ。
そうするとおかしなことになります。
あの世界において神とは何か。
それはシビュラに他なりません。
シビュラは「神託の巫女」と呼ばれる、
神の裁定を伝える物。
初めのうちこそシビュラはそういった言葉で
表されていました。
が、しかし、シビュラが正体を現してから、
それは「神」そのものとして扱われていたと思います。
槙島も「さながら神の如く」「神の意識を手に入れても」
などと言っていましたし。

で。
シビュラ=神。
であるとすると、メシアである槙島は、
シビュラと思想を同じくする者でなければならない。
・・・ということになります。
絶対、おかしい。

槙島は神であるシビュラを否定する者です。
神とは真逆の者です。
旧版21話、新編集版ではこの11話、
槙島が聖書から引用する場面があります。
「イエスは別のたとえを持ち出していわれた。
天の国は次のようにたとえられる。
ある人が良い種を畑に蒔いた。
人々が眠っている間に、敵が来て、
麦の中に毒麦を蒔いていった」
この例えに照らし合わせると、
槙島は毒麦を蒔く敵、すなわち悪魔に位置する者と
考えられます。

何故、悪魔である槙島の死が、
あんな風に磔刑の場面の如くに描写されていたのか。

様々説があるようですが、
楽園でイブに善悪の知識の木の実を食べるよう唆した蛇。
この蛇が悪魔であるという解釈があるようです。
アダムとイブが善悪の知識の木の実を食べ、
神に背いたのが原罪。
これによってアダムとイブは楽園を追われ、
人類は罪を背負い、神の恩寵を失うことになりました。
人々を神から引き離すのは悪魔であり、原罪です。
そう考えると、槙島は悪魔であり、また原罪であるという
見方も出来るのではないでしょうか。

で。
あの最期の場面。
あれは槙島が原罪を背負ったメシアとしてではなく、
原罪そのものとして磔刑に処された。
そういう場面と見ることが出来ます。
シビュラ社会の原罪。
シビュラの判定、ルールに沿わず、
シビュラを疑い否定する価値観で動き、
人々に新たな世界で生きることを突きつけた。
彼はそんな原罪だった。
だから、彼が死ぬことによって罪は贖われ、
人々はシビュラとの関係を取り戻した・・・・・・。


でも、待って。
それにしてはやっぱりあの場面は
メシアの磔刑の如く神々しく見えるの!


確かに槙島は悪魔な人間でした。
憎むべき犯罪者でした。
けれど、そのわりには作品内で彼は
数々の神聖さを伴って描かれていたと思います。

まず名前。
真昼を意味する「聖護」。
文字にも「聖」の字が入っています。
それから、これは別に元の設定ではなく
天野先生の大変有難いお仕事の結果として
生まれたようですがありがたや本当にありがたや!、
でもそのまま使われたってことは
少しは意味を持っているんじゃないかと思う、
真っ白な容姿。
あと、これは関係ないかもしれないけれど、
朱が夢に数々の過去を見る場面。
あそこで槙島だけが過去とは違う、
輝かしいまでの青空をバックにしているのが
気になって仕方ありません。
その他諸々(他にもあった気がしたけど忘れた)。
そして、最後に新規追加の夢の中。
狡噛が引用した「一粒の麦」。

「一粒の麦」とはイエスを表すらしいですが、
もう、これは、完全に槙島さんがメシアってことだろうと!
これから死に行く槙島さんがメシアってことだろうと!
そりゃあ槙島さんはメシアだから、
自分の最期も予知夢で見ちゃうだろうと!

・・・つい我を忘れて興奮しました、すみません。

つまり、槙島はちゃんとメシアという意味も持って、
あの最期の場面に至ったのではないかと思います。

しかし上記のように、槙島がメシアだとすると
シビュラが神のあの世界では
色々とおかしなことになります。
なので、ここで考えを少し変えてみます。
彼はシビュラという神に関するメシアではなかった。
けれど、他の神に関するメシアではあった。
こうすると、一応は成立するのではないでしょうか。

他の神。
槙島は自身を「不可知論者」だと言っていたし、
信仰心なんて持ち合わせていない人間だと思います。
ただ、彼の生き方は、自らの思想のために命すら
投げ出していく、ある種宗教的な雰囲気を
漂わせるものでした。
「人がシステムの家畜としてではなく人として生きる」
それが彼が命を賭けた思想です。
そこから見える、彼の神に値するもの。
それは人間の精神の神性といったものではないでしょうか。

つまり。
彼は、人が自らの精神を手放し堕落した世界において、
その輝きを再び人の手に取り戻させようとするメシアだった。
あの最期の場面にはこのような意味合いも
含まれていたのではないでしょうか。


だからね。

天使(メシア)であって悪魔であってありきたりな人間
であるという素晴らしい槙島さんの三位一体なんだよ!

どうだ!
参ったか!
私の妄想力に!!
こんな時どんな顔をすればいいのか分からない?

笑えばいいと思うよ!!


・・・という感じで。
妄想大爆発させて考えてたんです、が。
まーこの妄想ももうとにかくこじつけたいんだろ!?
って自分でも思ってましたが、
最終話の新規シーンでますます頭がぐっちゃぐちゃに
なってわけがわからなくなりました。

「贖う者」って槙島さんのことじゃないの?
魂の輝きを持つ者がみんな贖う者?
そうしたら今までの犯罪者たちも?
狡噛さんも?
あ。
でも狡噛さんは「一粒の麦」っぽいか・・・。
「永遠」とか急に言い出したのはどういうこと?
その要素はどこに出てきたの?
どこにかかるの?
愛って何だー!

もうなにもわからない。
ぐっちゃぐちゃ。

あー・・・。
うーん・・・・・・。
またこれから思い出しては
ちょっとずつ考えていきたいと思います。


とにかく今分かることは一つです。

槙島さんは天使だということだ!
天使天使!

あ。
天使とメシアは違うものだと思いますが、
似たようなものだし(多分違う)
敢えて天使を使いたいです。
何故ならば。
「槙島さんはメシア」
というと本格的に痛々し・・・じゃなく、
いまひとつな感じがありますが、
「槙島さんは天使」
というと可愛いからです。

槙島さんは天使!まじ天使!


えー。
そんな感じで。
結局最後まで同じことしか言ってなかったんですけど、
これで新編集版の感想は終わりです。


新編集版の追加槙島さん。
とてもお美しくて眼福でした。
ありがとうございました。


さー二期いくぞー!