「超訳百人一首 うた恋い。」

第五話の感想です。



※ネタバレします。



◎「超訳百人一首 うた恋い。」

超訳百人一首 うた恋い。 一(完全生産限定版) [Blu-ray]/梶裕貴,諏訪部順一,早見沙織
¥7,140
Amazon.co.jp


☆第五話「東下り 小野小町」「貫之と喜撰 喜撰法師」

の感想です。


三人が出会い、月を眺めながら酒と歌を楽しんだ夜。

あれから時は流れ、今を盛りと時めいていた小町も

今は後宮を離れ、一人寂しく余生を送る身。

そんな折、友人である康秀が三河へ赴任していく

こととなった。

友人がまた去っていくことに寂しさを感じつつも、

気丈にふるまう小町。

だが、その夜、またか業平。

そんな五話。




人生は儚く、

人は寄る辺ない生き物。

時の流れのなかで、

空の月は変わらずとも、

見上げる自分だけはただ老いていく。


そんな虚しさや切なさをしんしんと感じました。

人が人である以上、逃れることも抗うことも

出来ない悲哀。


それが、昔は後宮で大輪の花のように咲いた小町や、

恐れを知らない情熱の塊のような業平にも、

平等に、抗うことを許さず、淡々と降りかかっている

ことに、より一層の虚しさを覚えました。


類稀な美貌と煌めくような才覚を持ち、

後宮に咲き誇った小町。

その彼女が今はたった一人、夢の中で

「怖い!こんなはずじゃなかったのに!」と泣き、

不安に震える。

その様。


また、数々の女性と恋に落ち、

情熱の赴くままに生きてきた業平。

その彼が今は出家し、昔は恋心に例えた月を見て、

「満ち欠けにわが身の老いを思い知らされます」と

しんみりと語る。

その口調。


そして小町の「花の色は」の歌。


人間の老いの辛さ、

時に逆らえない虚しさ、

人生の儚さ。

それらが混然一体となって胸に迫りました。


何だろう。

一度にどっと襲ってくる恐怖というのではなくて、

いつの間にか忍び寄っている恐怖というか、

知らないうちに足をとられている恐怖というか・・・。

静かだけれどとてつもなく重い・・・ような、

そんな恐怖を感じました。


こういう感覚を覚える作品というのはあまりないので、

これはこれで素晴らしい感覚・・・と思いはしましたが、

しかしやはり辛い。


そう思っていたら、

康秀の意外な一言がありました。


「小町どの、先ほどの歌、人並みに結婚をして

子供に囲まれていたら、詠めましたか?」


「詠めなかったでしょう?」と続ける康秀。


確かに。

確かにそうかもしれないんですよね。

「あの時ああすれば違う人生が」

「もっと満ち足りた今があったかも」と、

人はついついそう考えてしまいますが、

今小町がこの歌を詠めるのは、小町の今までの

人生があったからなんですよね。


ましてや小町は歌に人生も自由も希望も

全てを反映してきた歌人。

その彼女が後世に残るこの歌を詠めるということは、

とても幸せなことかもしれない。


以前からずっと「花の色は」の歌は、

寂しくて辛い歌だという印象がありましたが、

そう思うと違う受け取り方が出来る。

何か救われた気分になれる。

勿論、本当のところはどうだったかは分かりません。

でも、何だか少し楽な気分になりました。

人生の悲哀も悪くはない。

そんな気分になりました。




人生は迷いと不安の連続で、後になっても後悔ばかり。

けれど、そんな苦しさを抱きつつ生きるのも、

また輝いた生き方かもしれない。

老いに震え、時の無情さにしんみりしつつも、

けれどもそれで人生はいいのかもしれない。

そんな風に思える、なんだかいい話でした。



うまく書けないけど、そんな感じ。


ていうか、喜撰法師の話、短くない?

ちょっと可哀想。


ていうか、定家さん達はまだその被り物を・・・。

彼らは一体何なのか・・・。