売ることを考える 17 | 芸能の世界とマネジメント

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影の問題について一応、終了をいたしまして、次に老賢者の話に移ろうかと思うのですが、影の問題から老賢者元型イメージが現れるまでの中間的な期間が存在するのもまたその特徴であります。例えば、このシリーズの主人公のA氏は男性でありますが、男性のミュージシャンではある日突然としてアニマを見せることがよくあります。しかしながら、理由はよくわかりません。とにかくわかることは、アニマが現れるときはある程度意識的に、つまり、意識がアニマを無理やり受け入れる格好で現れることがあるのは確かです。この後にうまく意識とアニマがかみ合うかは別の問題ですが、「世に自分を売り込むのであれば、アニマくらいいくらでも前面に出してやる!!」というような格好で、なぜか急に女性化する男性ミュージシャンが多いことが私の関心ごとであります。

 

その点において影から老賢者へと移るプロセスはそれほど急ではなく、その変化のプロセスをじっくりと見ることができることが多いのが特徴であります。老賢者とはいわゆる老賢者のことでありまして、現代のネット用語では「知恵者」と翻訳できるのではないかと思っております。今の10代の若い人たちからすれは団塊の世代の人々を見て、そして接しみてどのように思うか私には到底理解できないことですが、団塊ジュニア、つまり、私の世代からすると団塊の世代の親に当たる人々とは子供のころから多く接してきたので、その時の感覚を述べますと、理由も理屈もよくわからないのですが、少し突拍子がないことでも妙に納得できたものです。例えば、「敷居を踏むな」とよく言われました。その理由として、父親が死ぬからと私の祖父母は言っておりました。敷居を踏む=父親が死ぬ?という構図ですが、論理的には破綻しております。しかし、もしかして父親が死ぬかもしれないとすれば、やはり敷居は踏むべきではないと思ったのは事実であります。私以外の子供が全てそう感じるわけではないでしょうけど、多くの子供はそのように感じるのではないでしょうか。科学的には、敷居は大黒柱とまではいかなくとも、敷居に負担をかけてしまえば戸のスライドができなくなり、それどころか家が傾く恐れまで出てきます。そうすると家に住むことができなくなります。そうなれば大変なことになります。それを伝えるために「敷居を踏む=父親が死ぬ」という言い回しが出てきたものと思われます。

 

ところで、なぜ「敷居を踏むと家が傾く恐れがあるから、絶対に踏んではいけない!」と科学的に教えないのでしょうか。私の祖父母が科学的知識がなかったからでしょうか。もしそうであれば問題は簡単なのでありますが、私の祖父母は敷居を踏むと家が傷むことの原理を知っておりました。ではなぜこのような物語として伝えるようにしなければならないのでしょうか。私の子供の頃は異常なほど教育における競争社会が発生しておりまして、その反省からゆとり教育が始まったほど近代的で科学的な教育が盛んであったころ、私の祖父母は科学的なアプローチではなく、むしろアナログな方法で私に科学的な情報を伝えていたのはなぜでしょうか?という疑問を感じていただきたいのと、論理的に破綻している事項について、なぜ客体が「正論」と思えるのかについての原理について考えていかねばなりません。

 

高齢者が言ったことがゆえに老賢者的な元型イメージというものではなく、このように、論理的には破綻していたとしても、相手を説得させるだけの力がある場合、それは年齢に関係なく、それが老賢者の元型イメージであると私は主張したいのであります。あくまでもイメージでありまので仮説の域を出ることはないのですが、老賢者元型なるものはどのようなものかと問われると、私はこのように説明するようにしております。

 

老賢者元型イメージのもう一つの特徴は、論理的に整合性が整っており、非常に納得できる場合です。これは前述の事例とは真逆です。私の祖父母は私によく算数を教えてくれました。それはなぜか私の両親、それに学校の先生に教えてもらうよりも頭によく入りました。これも原理的にはやはり心の問題としか考えられず、教え方としては学校の先生の方がうまいのは確かです。しかし、なぜか頭に入ってこないのです。ところが、私の祖父母は教え方としては雑でありますが、非常に頭に入ってくる教え方をします。算数などは100%正解の答えがあるわけで、その答えを導き出すプロセスは学校の先生も祖父母でも同じなのですが、なぜか頭に入ってくるのです。ここに老賢者としての知恵があるわけですが、私の祖父母はそのことにまったく気づいていないのは言うまでもありません。

 

このような領域にまで到達するにはやはりそれなりの経験が必要でありまして、例えば男性の女性化から始まり、その仮面に押しつぶされそうになり、マーケット重視の行動に疲れ果て、ついには「自分とは何だろう?」と思い悩み、そこを乗り切った時に明るく見える一筋の明かりとしての老賢者元型(イメージ)があるのであはないでしょうか。

 

では、影とは経験に由来するものなのでしょうか?という疑問もあり、アニマ・アニムスのように先天的に感じられるものとは違うようにも感じられますし、突き詰めると、では元型とは一体何?ということにもなりまして、つまり、影の問題を考え、次のステップに入ろうとするとき、心が健康である人でさえもこの段階で大きな考えの変化を認めざるをえなくなるのです。ここにユング心理学の奥深さがありまして、これまでは比較的、元型については「簡単だ」と思っている方も多かったことだと思います。しかし、元型イメージの概念についての真の難しさはここからでありまして、考える側も老賢者への変身を余儀なくされます。

 

さて、1+1=2である、この一言で「天才だ!!」と称賛されることがあれば、これほど楽なことはありません。しかしながら、世の中にはこれを実現させる人と実現できない人がいます。アインシュタインが1+1=2というのと、私が1+1=2というのとでは全く重さが違います。しかしながら、両者はともに同じことを言っております。ここが人間の面白いところです。両者ともに正解を導き出しているにも関わらず、私が言えばマイナスの方向へ向かいます。芸能人として自分を売っていく際、この点が非常に重要となってきます。ステージへ上がって、「どうも!」の一言で観客が大喜びするミュージシャンとそうでないミュージシャンの差は何でしょうか?と考えてみるとご理解いただけるかと思いますが、ここに心の問題が潜んでいると私は考えております。

 

次回からは影の問題の再考に入り、そこから老賢者元型の話に移っていこうと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。