前回はプロ論について論じました。プロの定義はいろいろありますが、深層心理学や易経の視座からは、「生まれもっての才能」を活かした職業に就いている場合にプロと定めようとしました。実際例としては大学教授の例をあげ、教授を目指して教授になった人と、教授を目指したわけではないが、周囲の人が持ち上げて教授になった人と比較し、検証を行いました。教授という役職の中で、全ての教授はある基準をクリアしておりますので教授であることに間違いはないのですが、教授としての人生は両者ではまるで異なることを指摘しておきました。なぜこうなるのか?同じプロでも苦労しながらのプロと、楽しみながら仕事をするプロがいるわけで、その違いは何か?ということですが、要は、運命的なものであり、苦労する人は学者としての実力はあるものの、天職ではない可能性が高いわけです。これを易経では「太極」なるもので表現され、ユング心理学では「元型」で表現されます。
ここで一つ心理学的要因によるもう一つの人生道を示してみようと思います。それは「影」によるものです。人間には誰しも影が存在します。影というのは生きられなかった半面のことです。わかりやすく言いますと、ペルソナの逆のことです。ペルソナは現在生きている半面であります。例えば、質素な服を愛している人の影は「ゴージャス」です。逆にゴージャスな服装を愛している人の影は「裸」です。面白いですね。ある国の人々がプライベートビーチにて全裸で海水浴を楽しむのは、まさに「影」をさらしていることになるのです。これは人間には誰にも備わっている元型でありますから、あとはその人のコンプレックスによって現れる元型の結果が異なるだけでありまして、その意味で、人間の一生というのはあらかじめ決まっているということができるわけです。そしてその「コンプレックス」による縛りが生れるわけです。
人間は生まれてから独り立ちするまで、誰かに育てられなければなりません。多くは両親のもとで育ちますが、ここで大きな縛りを受けるわけです。ここで両親によるコンプレックスを大きく受けることになり、その意結果として、「影」をも受ける可能性も高くなります。前述の影の例は主体自身の影の話ですが、主体が客体の影を受けることもあります。要は、父親か母親の影を受ける場合、逆に両親が子供の影を背負う場合があり、ここで運命が決定されることもあります。こう言っている私がまさにこの事例に該当します。とりわけ、私は父親の影を背負い、プロギタリストとして活動しております。
ではその具体例ですが、結論からいうと、私は学問とギターを比較すると、学問の方が好きです。ギターはどうかというと、正直なところ、ギターを弾いている感覚というのはあまりありません。もう少しわかりやすく表現しますと、風邪をひいて鼻が詰まっているとき、「味覚」がなくなりますよね?食べているのに食べている感覚がない・・・これと同じような感覚なのです。つまり、ギターを弾いているのですが、弾いている実感がまるでないのです。これは今になってそう感じるのではなく、私は13歳の時からギターを弾いておりますが、その時以来、現在に至るまでその感覚が続いております。ところが、自分の専門の学術書を読むとき、「私は本を読んでいる!」という充実感に満たされます。この差は何でしょう?ということですけど、これがいわゆる元型の作用です。元型が自我を凌駕しているため、ギターを手にしても何も感じないのです。具体的には影が自我を凌駕しているため、何も感じないままに手は動くという現象が起きているわけです。
実のところ、ギターを始めた少年時代から私はギターを弾いている感覚というものがほとんどなく、非常に変な感じでした。弾いている感覚はないのに上達していくことが非常に恐ろしく、子供ながらに「何かに呪われたか?」と恐怖の日々を送ったものです。しかし、日常生活に支障はでなかったのでこの件は私の胸の内にしまっておいたのです。そこから28年後、あるブログの記事を目にした時に衝撃を受けたのです。サラリーマン生活を送ってきた私の父はなんと、ギタリストになりたかったという衝撃的な事実を知ったのです。なぜ衝撃的かというと、私が41歳になるまで一言もそのようなことを聞いたことがなかったからです。しかも、ギターは嫌いとの発言をよく耳にしておりましたので、驚くとともに、まさに私は父親の影を背負って生きていることに気づき、ギターを弾くときの無感覚の理由も納得できたのでした。しかしながら、納得しただけでありますので、ギターへの思いが劇的に変化したわけではありません。現在でもギターを弾いている感覚はゼロです。しかし、それでいいのです。
このように、私は影に操作されながらプロギタリストとなっております。つまり、私自身の意思とは全く関係なのです。しかも父親の影の影響ですから、実のところ私がギターを弾いている姿は私の父の姿であり、私ではないことに注目していただきたいのです。ギターをプレイしている実態は私ですが、心は私の父親であります。ですから、皆様方は正確には私のギタープレイを見ているわけではなく、私の父親のギタープレイを見ていることになります。いかがでしょうか?頭がおかしくなりそうですね!
これも生まれもっての才能の一つです。ダメになった音楽業界をどのように生きていくか?と真剣に考える人もいれば、私のようにそのようなことは全く関係なく、むしろ影に支配されて前に進んでいるだけというプロもおります。さて、どっちの方が音楽業界に向いているのか?となるのですが、皆様方はいかがお考えになりますか?
今回はここで筆をおきます。ご高覧、ありがとうございました。