前回におきましてはペルソナを個性化しないといけない、そして、アイドルにおける差別化戦略の概論についてふれました。今回は差別化についてもう少し吟味してみようと思います。
そもそも差別化戦略とはそれほど難しい概念ではありません。一言で表すと、「他と違えること」でありまして、たとえば、音楽のオマージュも差別化戦略の一部となります。一つの基準があり、それとどこか一点でも違っていれば差別化戦略となります。ところが、基準から比較して一点しか違いがない場合、競争相手からすぐに出し抜かれます。というのも、競争相手が基準から二点違えてくればそれで負けです。しかも後発がマーケットで受け入れられれば確実に負けます。そのようなことから、ポーターは、「業界内にて多くの顧客に違いを認めてもらい、競争相手より優位に立つ」というように結論を下しております。重要なのは競争相手よりも優位に立つことでありまして、その意味から、「ある基準から少し違うくらいではいけない、認められない」ということをまずは念頭においてください。
さらに、もうお気づきかもしれませんが、差別化戦略を実行するには差別するだけの「元ネタ」、要するに「基準」がなければ話になりません。その基準から比べてどのくらい違うか?というのが醍醐味であります。しかし、気を付けなくてはならないのは、違えすぎると該当する基準から大きくそれることになり、投影する側が理解不能に陥り、よって、相手にされないという事象が起こります。芸能人として山田五十鈴先生を尊敬するからといって、宗子が山田先生自体になってしまったのでは、宗子という対象からあまりにもかけ離れているために投影者が正確な判断ができなくなることは簡単にご理解いただけるかと思います。これとは逆に、山田先生と差をつけるために、全く別の女優の方向へペルソナをもっていくとき、それは基準を失うことになりますから、そもそも意味のないことになります。このように、個性化というものに差別化の概念を導入しますと、そこには「基準」という「中心」が現れ、その中心との距離感というものが非常に重要になることが分かります。上述の例からもご理解いただけるかと思いますが、基準に近すぎると投影対象物との差がなくなり、遠すぎると基準を立てる意味がなくなります。しかも厄介なのは、基準が中心であり、その基準に合わせていく自分という存在は基準の外側に位置していることから、基準へ向かうことは行動の主体としての自分は生きられなかった半面としての「影」の部分に接近することであり、遠ざかることはむしろ「崩壊」への道を進むことになりますが、接近しすぎると影の内部に入り込むことになり、これまた崩壊への道を進むことになります。これらのことを簡単に言うと、「単純に真似をするだけではダメ、独りよがりでもダメ」ということになります。
要は、差別化というのは他と違えることが重要であることは確かなことです。ゆえに差別化ですが、「顧客価値創造」、「知覚価値の創造」、「模倣の困難さ」としての差別化の基本原理を考慮し、「業界内にて多くの顧客に違いを認めてもらい、競争相手より優位に立つ」(ポーターより)には違えすぎても、近すぎてもいけないという、基準に対する「距離」の問題が出てきます。ですから、差別化の究極的な問題は基準に対する距離の問題であり、ペルソナ作りの中級においてはこの点が一番の克服すべき課題となります。しかしながら、これを克服すると、不思議なことに、今度は自分がその基準となっており、見る立場からみられる立場へと変化するところが個性化と差別化の議論の面白いところであります。
ついでに言っておきますが、今現在ではこのようにわかったようなことを偉そうに書いていますが、私がまだ20代の頃は基準となる個性にあまりにも入り込みすぎ、大きな失敗を犯した過去があります。このことがきっかけでハーバード大学という大学へ「追いやられる」という結果となり、このことが最終的に東京大学(私の意味するところは、日本の大学という意味)の博士となるきっかけとなりました。さて、その原理はどのようなものでしょうか?皆様方への宿題としておきます。
次回はこの差別化についての距離の問題について吟味していこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。