今、手元に「虐殺器官」(伊藤計劃著、ハヤカワ文庫)がある。特に意味はない何度目かの再読つまり息抜きを終えたとき、理由は定かではないが、ブログを更新しようという気分が沸き上がり、やや困惑しながらこれを書いている。一年半前に更新して以来、もう当面の間は書くべきことはないと考えていたし、実際あれから何か新しい発見をしたわけでもない。私はただ慣れ親しんだ本を数年ぶりに読み返しただけである。しかしよく考えてみれば、それは執拗に過去を掘り返しまくる私のような人種には相応しい切っ掛けなのかもしれなかった。そういう次第で、これから虐殺器官について書き殴っていこうと思う。
"生と死のあいだに、これだけ曖昧な領域が広がっていることなど、誰も教えてはくれなかった。モーテルに帰って、ぼくは泣き続けた。灰色の領域を増やし続けてそれを省みない世界に泣いた。"(3-4, P199)
昔、私はマーク・トウェインの嘘と真実についての有名な文言について考察し、それを記事にしたことがある。ちなみに、その記事は何を間違えたのか検索上位に躍り出てしまって頻繁にアクセスされるようになったため、現在は限定公開に止めてある。その記事で私が思案したことを一言にまとめると「文明社会において無知は増加し続ける」ということになる。今日の世界は専門知識と専門技術によって支えられている――というよりも引き摺り回されていると言っても過言ではない――が、それらが専門的であればあるほど私たちは無知にならざるをえない。やがてそれは生と死の境界線をも希薄にしてしまうかもしれない。虐殺器官の世界における脳科学の最新の業績によると、人の脳は少なくとも572個のモジュールから構成されているらしい。その結果、どれくらいのモジュールが生きていれば人は生きていると定義されるのか、どれくらいのモジュールが機能していればわたしと認識されるのか、生と死はこの上ないほど曖昧なものになってしまった。科学は、技術は、もはや哲学の追随を許さないというわけである。
こういう話をするたびに「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3」のとある場面が脳裏に浮かぶ。それは1885年にタイムスリップしたマーティ・マクフライが、いつもの調子でビュフォード・タネンの怒りを買ってしまい、市街地を引き摺り回されるという場面である。私はそこに、人間とテクノロジー、現実と理想の関係を投影してしまう。昨今、AI技術の発展は著しく話題に事欠かないが、私たちの世界はそれを受け入れる準備ができているのだろうか。映画ではあわやというところでエメット・ブラウン博士が登場し、マーティは九死に一生を得るのだが、私たちの現実にも彼のような人物が駆けつけてくれることを祈りたい。
"「ほんとうの絶望から発したテロというのは、自爆なり、特攻なりの、追跡可能性のリスクを度外視した自殺的行為だからだ。社会の絶望から発したものを、システムで減らすことは無理だし意味がないんだよ」"(5-5, P371)
認証すること、虐殺器官の世界ではとにもかくにもそれが重要である。移動するのにも、買い物をするのにも、何をするのにもバイオメトリクス認証(以下、生体認証)を求められる。そして、その認証情報はすべてデータベースにログ情報として集積され管理され、有事の際は「トレーサビリティ」(=追跡可能性)のお題目の下、すべて丸裸にされる。ある自由を手放し、別の自由を手に入れる。そうすることがテロ対策として最も有効なのだと人々は決め込んだいう。しかしながら、実はそのセキュリティシステムはテロ対策としてほとんど意味をなさないことが判明してしまう点に、この物語の恐ろしさがある。私たちの理性は、私たちの判断は、はたしてどれくらい信頼に足るものなのだろうか。
ところで、認証とはすなわち正当な利用者であることを検証し確認することを指すが、その方法は主に三種類に大別される。知識による認証、持ち物による認証、そして件の生体情報による認証の三種類であり、基本的には後者の方がセキュリティ強度が高いとされている。しかし、生体認証は課題も多い。高い強度と利便性を持つがゆえに希少性もまた高いのである。考えてみて欲しい、一般的に人間の指は十本しかないし、目は二つしかない。声紋と静脈パターンに至っては一つしかない。高度個人認証社会において、もしこれらの生体情報が露呈したとしたらそれは一大事である。また、それに関しては私たちの社会でも同様である言え、例えば私がユーチューバーに転身する時などはそのことを十分に考慮する必要が生じるかもしれない。なぜなら、私の投稿する動画に私自身の生体情報が高解像度で写り込むリスクがあるからである。生体情報による認証を多用する社会では他人との接触は少しばかりリスクが高いように思えてならない。
"「仕事だから。十九世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方がないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間たちから、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、きみは知っているのかね」"(4-5, P311)
歴史上最も人間を殺したのは宗教である、SNSでそういう投稿を何度か見たことがある。それは自称無神論者がありもしない権威を振りかざして他人を攻撃する際にしばしば使われる文言だが、ある意味では的を射ている。と言うのも、作中では仕事だって立派な宗教ではないかと指摘されていて、神の教えだから、使命だから、仕事だから、そういう理由で人は見事に良心を無視することができるという。確かにその点で言えば両者に違いはないと歴史が証明している。
脳を572個ものモジュールに分割しても尚、まだ脳は未知数であるという。題名にもある虐殺器官とはそうした未発見のモジュールの一つであり、その機能について端的に言えば、人の価値判断に関わる脳の特定のモジュールを抑制し、いわゆる価値基準を狂わせること。そして最大のポイントは、それが私たちの言語表現や言語交流を通して密かに伝播していく点である。作中ではそれを虐殺の文法と呼んでいて、言語表現の表層には表れない、より深い階層に秘匿されているという設定のようだ。少し分かりにくいところだが、情報通信におけるプロトコル(通信規約)を思い浮かべれば理解しやすいと思う。コンピュータが互いに送り合っているのはデータだけではない、それに制御情報を付与している。それは例えばアドレス情報やサービスの種類、検査符号などのいわゆるメタ情報のことを指すのだが、この制御情報を一般的なユーザがコンピュータを利用する際に意識することはまずないだろう。つまり、虐殺の文法とはこうした制御情報の一種であり、私たちの意識の外で伝達される情報なのだと思われる。ちなみに昔、悪意ビットと呼ばれる架空の制御情報を実装するという「ジョーク」が流布したことがあったが、もし興味があれば調べてみるとより理解が深まるかもしれない。
"「それは違うわ。人は、選択することができるもの。過去とか、遺伝子とか、どんな先行条件があったとしても。」"(3-5, P207)
ホッブス的闘争状態から社会契約の実現に至る過程の価値判断の変化を、作中ではゲーム理論で説明している。私たちが一般的に良心や利他性と呼ぶものは人類の進化論的な進化の過程で獲得したものではあるが、それがむしろ人類が生存していくためにマイナスとして働いてしまう場合があるという。作中では飢饉などによって起こる食料問題が例に挙げられる。もしマイナスに働くのであれば抑制しなければならない。つまり、虐殺器官とはそのために生み出されたのであり、良心や利他性を麻痺させて「種の生存のために」虐殺を誘引する器官、ということのようである。確認しておかなければならないのは、虐殺器官とは個人的な機能ではなく集団的な機能であるということ。虐殺はその社会における人々の不安や危機感がある閾値に達したときに、個々人の手によって様々な形で引き起こされる。誤解を恐れずに言えば、虐殺とは社会が破滅するその最終段階ということなのだろう。したがって物語があのような結末を迎えてしまうのは必然なのかもしれない。
私は今、絶望しているのだろうか。灰色の領域に、社会の不完全性に、人間そのものに絶望しているのだろうか。だからこんな記事を書いているのだろうか。犯人はヤスなのだろうか。確かにそれを否定することは難しいのかもしれない。しかし、私はまだ何かを探している。まだ他の展開を求めている。それを否定することもまた難しいと思った。