From a Back Alley

From a Back Alley

The Buffer in the Synopticon

 

 前回は伊藤計劃の虐殺器官についての感想を書いた。その流れで、今回はおそらく続編にあたる「ハーモニー」について語ろうと思う。この作品は小説としてある特徴的な構造を有していて、そのアイデアの大胆さと言ったらあまりにもクールでありそれだけで一読の価値があるのだが、まあ、今回はそれについては割愛する。

 

 

 人間の「意識」とは、会議のようなものである。人間の持つ様々な欲求がせめぎ合い、その末に一つの「意志」を生み出すプロセス、それが意識の役割なのだと作中では言及される。例えば週末に旅行でもしようかと思い立ったとき、わたしのなかにいくつかの候補地が思い浮かぶ。北は北海道から南は沖縄まで日本には様々な名所があるが、時間は限られているためいくつかのプランを考案し、そこから最良の選択をすべく検討を重ねる。その結果としてどこかの観光名所が選出されたり、もしくは旅行自体が取り止めになったりする。このようなプロセスが脳の欲求を司るモジュール群のレベルで絶えず行われている、ということのようなのである。上記のようなことは実は社会でも同様に行われていて、さきほど説明した欲求を司るモジュール群を社会の構成員だと言い換えれば、理解するのはそれほど難しくないだろう。つまり誤解を恐れずに言ってみれば、わたしたちの生活そのものが社会の「意識」であり、社会とはそれを構成する集団の「意志」を生み出すプロセスのことなのである。ここでは便宜上、それらを社会の意識と社会の意志と呼ぶことにする。

 作中の社会の意志とは「生命主義」のことである。〈大災禍〉後の荒廃した世界を生き抜くために、残された人々がそういう主義を掲げること自体は決して不思議ではない。しかし、それから半世紀もの時間が過ぎて世界はとっくに復興を成し遂げたにもかかわらず、生命主義は役目を終えるどころかさらにエスカレートしていて、その結果として皮肉にも自殺者が増加するなどの歪が生じてしまっている。そうした現実を無視して、健康であることを唯一にして最大の目的とすることはあまりにも教条主義的であり、作中で「財布を使いこなせれば貯金箱はいらないのに」などと揶揄されている。ところで現実を無視するとは何を意味するのか。それは社会の意識を無視するということに他ならない。例えば先ほどの旅行の例で言えば、会議をする前に最初から既に旅行先は決定されていて、いくら他の所にも興味があると訴えても聞く耳を持ってもらえない、というような状況だと考えられる。いくらわたしは沖縄に行きたいんだと訴えても「いや、京都以外はありえないでしょ(2500回目)」というわけである。そうした状況で会議を行うことに意味はなく、ただ苦痛が増すだけではないだろうか。

 なぜこうした事態に陥ってしまうのかは、現実的には、エーリッヒ・フロムの自由からの逃走などの名著を読めば理解しやすいと思われるが、この物語としては、あまりにも悲惨だった〈大災禍〉に対する反動なのだと説明されている。自由意思に基づく統治にたいする拭い去ることのできない不信感、それがいわゆる一般原理というものを打ち立てさせ、かつそこから逸れることを一切許さないのだという。本来人間には実践主義的に便宜的に物事を判断する能力が備わっているはずだが、そんなことをすれば忽ち半世紀前に巻き戻ってしまうのではないかという恐怖がそこにあるのだろう。したがって、この社会は超福祉社会でありながら同時に超監視社会なのである。

 ここで逆転現象が起こる。個人の意識から個人の意志が生まれ、その意志が集まることで社会の意識が形成され、最終的にそこから社会の意志が生まれる、というのが本来の筋のはずだが、それが逆転してしまうのである。もし社会の意志が永久に不変のものになれば、もはや社会の意識というものは不要だということになる。しかし、だからと言って個人の意志が消失するわけではないから、行き場をなくしたそれらは苦痛に苛まれ続けることになる。だから自殺者が増える。そして、そうなれば個人の意志というものは社会にとってむしろノイズでしかなくなってしまうのだが、驚くべきことにこの教条主義社会はそのノイズを消去するという方向へ舵を切るのである。具体的には、特定の意志を生み出すために意識をコントロールする技術の確立である。そう、個人の意志が不変のものになればもはや個人の意識は不要となるのである。すべてが整然とし、すべてが自明であるなら、もはや会議を開く必要はない。むしろ無駄であり苦痛なだけである。そうして彼らは京都へ旅行に行く、永遠に、喜びとして。ここに人類の調和は完成し、人類は幸福を獲得したのだと、物語は締めくくられる。

 

 理想と現実の関係は、はたしてどうあるべきなのだろうか。PART1で話したバック・トゥ・ザ・フューチャーについての話ではないが、理想は現実を引き摺り回してでも突き進むべきなのか、それとも、現実は理想を縄で縛りあげて監禁しておくべきなのか。わたしはテクノロジーが嫌いではない。モノづくりは楽しいものだし、それが社会の発展に何ほどか寄与するなら素晴らしいことだと思うが、昨今の世の中を眺めていると疑問を覚えずにはいられない。なぜ現実と理想はいわゆる敵対関係に陥ってしまうのか、手を取り合って共に歩むような友好関係を築けないものなのだろうか、あるいは共存関係を模索することはできないのだろうか。敵とどのようにして共存するのかという大人の態度は、昨今は消え失せつつあるのかもしれない。かくいうわたしも、このありさまである。人類など滅びればいいという崖っぷちに立ちながらも、どうにか踏みとどまっているわたしは単なる「臆病者」なのか、それとも人類や世界、人生などと呼ばれるものは、わたしの浅知恵に収まるほどちっぽけなものではないという「期待」がまだあるからなのか。

 余談になるが、物語はともかくとして扱っているテーマ自体は押井守監督作の「ゴースト・イン・ザ・シェル:イノセンス」に通じるものがあると思う。ゴーストが何を指すのかは曖昧というかさまざまな解釈があるのだろうが、もし仮にそれを意識だと解釈すると、その扱いの対比はかなり興味深いものになる。イノセンスは元々好きな作品ではあるが、なぜかこれまでSFというジャンル自体はあまり読んでこなかった。これを機にいろいろと知見を広めていこうと思った。