【エチオピア帝国の近代歴史情報】

 

エチオピアでは17世紀に王朝の求心力が次第に弱まっていき、18世紀には国内が分裂状態となった。1853年になってようやく、ラス・カサ王子が強力な中央政権を樹立して国内を再び統一し、1855年にテオドール2世として即位した(1868年まで)。

 

王はヨーロッパ諸国を手本にして、国の体制と教会を改革しようと試みたが失敗する。1885年以降、スーダンでイギリスとエジプトの支配に抵抗するマフディーの乱が起きると、エチオピアも危険にさらされたが、マフディーの反乱軍はやがて撃退された。

 

1895年頃からは、アフリカの角と呼ばれる地域に植民地を建設しようとしたイタリアが、新たな脅威として浮上してきた。しかし1896年に皇帝メネリク2世が、イタリアの遠征軍をアドワ近郊で破るなど、エチオピアは植民地主義時代において、アフリカではリベリアを除いて唯一独立を維持した。

 

メネリク2世は国内において、官僚機構の改革を進め、アジス・アベバに新たな首都を建設した。1916年、イギリスの支援を受けた皇太子ラス・タファリ・マコンネンが権力を握り、1928年に自らの王位を宣言した。

 

1930年にザウディツ女帝が崩御すると、彼は皇帝ハイレ・サラシェ1世として即位し、すでに1923年から国際連盟に加盟していたエチオピアを、近代国家に変えようとその後何年にもわたり努力を続けた。1935年、ファシストの率いるイタリア軍が、エチオピアを植民地に組み入れようと、再び侵攻してきた...。

 

 

 

 

アフリカ最古にして唯一の独立国家、エチオピア。

西欧列強のアフリカ分割の渦中にあって唯一独立を維持し、英国の支援を得た第1次エチオピア戦争では、侵略してきたイタリア王国を撃退しました。

 

英国の保護国エジプト、自治領の南アフリカ、米国の属国リベリアなど存在しますが、

列強の支配を逃れているのはエチオピアだけです。

 

 

ただし、軍隊は前時代的、高原地帯が多い関係でインフラも全く整備されておらず、近代教育も進んでいません。

1930年代に入り、日本を範として近代憲法を成立させ国内改革を進めますが、再び侵略してきたイタリア王国を相手に、第2次エチオピア戦争が勃発。これに敗北し独立国家としてのエチオピアは消滅しました。

 

イタリア王国を撃退し、エチオピア主導でアフリカ植民地体制の打破を目指してみたいと思います。

 

 

 

エチオピア軍の規模は、その国力に見合わず大規模です。

40万~50万もの軍隊がありますが、正規軍はその半数にも満たない上、装備は前時代的です。さらに正規軍以外は民兵。すなわち列強には到底及びません。

 

またエチオピアは内陸国であるうえ、周囲はイギリス、フランス、イタリアの植民地なので拡大は安易にできません。

 

国力を表す工業力値は、たったの7。

比較するならば、アメリカ合衆国の75分の1、イギリスの50分の1、イタリア王国の15分の1です。

 

 

仇敵、イタリア王国。

サルディーニャ王国の名門サヴォイア家が治めるイタリア王国です。

 

ファッショに率いられる独裁国家であり、賄いきれない人口と働き口の解決策として、

東アフリカの領土拡大をもくろんでいます。

 

イギリス。

 

第1次エチオピア戦争では援助をしてくれた国ですが、対ドイツを見据えイタリア王国との関係を重視しており、援助は期待できません。

 

 

東の列強国、日本。

 

エチオピア単独で、イタリア王国と戦っても勝機は薄いので、日本に接近します。

史実の日本は、エチオピアと交流しながらも、遂に助けることはしなかったですが、

この世界の日本はそうでないことを願います。

 

 

エチオピア皇帝、ハイレ・サラシエ1世。

エチオピアは皇帝専制の独裁国家ですが、将来的には立憲君主制を目指していきます。

 

 

軍隊は時代遅れの装備。これの改良が急務です。

 

 

 

日本、中央アジアの新疆地方での、東トルキスタンの独立を支援することを決定、

この行動は、結果には結びつかなかったですが、日本の外交姿勢を世界に知らしめました。

 

 

 

史実では破談に終わった、アラヤ皇子と黒田雅子の縁談。

日エの繋がりを強化するため、イタリアの妨害を恐れず縁談を進めることにします。

 

 

 

縁談は成立。2人の結婚式は、エチオピアの首都アディスアベバにて執り行われました。

これによってエチオピアは、日本との間に同盟関係に近いつながりを得ます。

 

 

 

日本、イタリアをけん制する目的で、エチオピアの独立保証を声明。

エチオピアの独立を侵すことがあれば、然るべき措置をとることを宣言しました。

 

これに対し、イタリアは報復として日本の満州国建国を痛烈に非難。

国際社会に向けて強く糾弾するとともに、対日禁輸に踏み切りました。

 

 

 

日本の独立保証もむなしく、エチオピアとイタリアは国境沿いで衝突。

エチオピアは国際連盟に提訴しますが、イギリスとフランスは全くあてにならず。

頼みの日本も本当に支援してくれるかは不明なため、できる限りの軍備を進めなくてはいけません。

 

 

この世界の日本は、余程寛容らしい。

民族自決を推し進め、満州国に対する関東軍の支配を終わらせたようです。

 

 

 

 

イタリア、エチオピアに対し宣戦布告。

日本の独立保証など意にも介さず、とうとう侵略をしてきました。

 

 

質では明らかに劣勢ですが、アフリカ最古の独立国家として、簡単に列強の支配に降るわけにはいきません。

 

『負けるものか!』

 

これに対し、日本は義勇軍という名の正規軍を派遣してくれました。

貸与された日本軍は、イタリア軍と比しても遜色ない強さがあるため、戦局を変えてくれるでしょう。

 

いまだに黒人に対し差別意識の強いアメリカ合衆国は、支援をしない方針。

白人至上主義の世界など、こんなものです。

 

義勇軍派遣でも尚、劣勢のエチオピア帝国にたいし、

なんと、日本は正式にエチオピア側について参戦。イタリアに宣戦布告しました。

 

 

イタリアの派遣軍5万の将兵は、日エ連合軍に対し降伏。

損害の大きさと苦戦に驚愕したイタリアは、エチオピアに対し講和交渉を申し入れる。

 

イタリアの東アフリカからの完全撤退と、同地の割譲を条件に講和を認め、終戦しました。

(ちなみに、北部紅海側のプロヴィンス全部と、ソマリア川のプロヴィンス1つ占領で講和に移れるようにしてあります)

 

 

 

同じ有色人種の国、日本の大規模支援の甲斐あり、エチオピアは勝利。

取るに足らぬはずのアフリカ国家が、列強イタリアを退けた。

その事実は世界を驚かせます。

 

この勝利で、イタリア領だった北部エリトリア、東部ソマリアはエチオピアに割譲されます。

外洋に面したことで内陸国ではなくなり、その国力を飛躍的に上昇させることができました。

 

 

第2次エチオピア戦争後、エチオピアは日本との同盟締結を打診、

日本はこれを受諾し、日エは正式に同盟関係になりました。

有色人種国家として大きく発展している日本の援助は、エチオピアの近代化を助けてくれます。

 

 

 

何がどうなったかわかりませんが、山本五十六首相の日本。

日エ同盟により、これから日本とエチオピアは一蓮托生です。