すでに1939年を回り、ナチス・ドイツの領土野心はとどまることを知らず。
ミュンヘン協定のあと、チェコはドイツに併合され、スロバキアにはティソ司教を厳守にした傀儡国家、スロバキア国が成立しました。
もはや、融和でドイツを止めることはできないと気付いたイギリスは、ポーランドと同盟を締結。
野心を向けるドイツへの牽制とします。
中国大陸を平定し、束の間の平和を過ごす大日本帝国。
しかし、満州とソ連の国境沿い紛争は収まらず、断続的に戦闘が続きます。
史実でも、国境沿いでのソ連との戦闘は長く続き、日ソともに宣戦布告こそしなかったために
地域紛争という形で争っていました。
結論から言うと、この国境紛争は日本の敗北で終わりました。
そもそも極東に配備されていたソ連軍は精鋭たちであり、かのミハイル・トゥハチェフスキー元帥が育て、ゲオルギー・ジューコフによって率いられた強者師団でした。
かつて露軍を打ち破った日本軍は装備と練度の面でソ連に及ばず、敗北を喫したのです。
日ソが満州で争う中、欧州ではドイツとソ連が不可侵条約を締結。
ソ連のヴィヤチェスラフ・モロトフと、ヨアヒム・フォン・リッペントロップによって締結されたこの条約は、モロトフ=リッペントロップ協定と呼ばれます。
この協定で重要なのは、独ソの不可侵ではなく、両国による東欧分割の取り決めです。
ドイツとソ連は秘密裡に、東欧また北欧の国を侵略し、それぞれの取り分を定め、お互いに異を唱えないことを取り決めたのでした。
これによって、緩衝国としての価値を失ったポーランドは、ドイツの侵略を受けることになります。領土割譲を迫られたポーランドは、連合国の支援をあてにし、拒否。
ドイツの宣戦布告と侵略に、勇敢にも立ち向かいました。
もはやドイツの行為を見過ごすつもりのないイギリスは、ドイツに宣戦布告。
フランスもこれに続きます。
第1次世界大戦と同じく、西部戦線はイギリス・フランス連合軍 VS ドイツという形になりました。
ところが、連合国はポーランドを支援するために具体的な行動を起こさず、はっきりいえば見殺しにされました。
ポーランドは、自慢の騎兵師団を使いドイツ軍をかく乱しますが、ドイツ機甲師団の前に敗れ去り、また同時にソ連の侵略も受け、世界地図から姿を消したのです。
暇だったので、欧州戦線を観戦。首都ワルシャワは持ちこたえていましたが、分断されたポーランドはあえなく降伏しました。
欧州の戦火が拡大する中、日本はニッポン号の出立。
また、戦争が起きたことにより、1940年に予定されていた東京五輪は中止になります。
この時点で、インフラや工場建設ボーナスは消滅しました。
ソ連、オジェウ事件をきっかけとして、バルト諸国への政治的侵略を開始。
この中で、ソ連=エストニア国境沿いにソ連軍が集結。ソ連はエストニアに対し、エストニア国内の海軍基地を、ソ連側に貸与してほしいと要求します。
これを承諾したら、エストニアは実質的にソ連に占領されたも同然となり、拒否すればソ連は力づくでエストニアを従わせようとするでしょう。エストニアは交渉の末、ソ連がエストニアの主権を侵害しないことを確約させ、ソ連側への貸与を承諾しました。
ところが、この約束は破られ、ソ連の圧力のもとエストニア議会は解散。
新たに共産主義の政府が成立し、エストニア新政府は満場一致でソ連への合流=被併合を承諾。
独立国家としてのエストニア共和国は消滅し、ソ連を構成する共和国の1つ、エストニア=ソビエト社会主義共和国が成立したのでした。同じように、ラトヴィア・リトアニアも消滅しソ連に併合されたのです。
東欧で政治的侵略を続けるソ連、極東でも日本を退け、満ソ国境沿いは紛争はひとまず収まりました。日本側の敗北により、ソ連の指定した国境線を承諾せざるを得なかったのです。
ドイツ、苦も無くポーランド併合。
ヒトラー暗殺未遂。史実でも幾度かあった暗殺未遂ですが、これはすべて失敗しています。
ちなみに、本ゲームでも条件を満たせばヒトラーは暗殺され、ドイツには新体制が出来上がります。
1940年を迎える。
神武天皇の即位、すなわち日本国の建国からちょうど2600年が数えられ、日本では盛大にお祭りが開かれます。
起源2600年のお祝いのつもりか、中華民国政府からパンダが贈られる。
日中友好のしるしです。
天皇陛下より組閣の大命を受け、米内内閣が成立。
米内光政はアメリカ、イギリスとの友好論者で、日独伊三国同盟に強く反対した人物です。
しかし、ドイツ、イタリアへの接近を企図した軍部に煙たがられ、終いには圧力を受け退陣させられました。
フランスがドイツに対して降伏。
史実では、マジノ線を避けてアルデンヌの森を突破して電撃戦を展開し、フランスを降したドイツですが、この世界ではイタリアと同盟を結び、伊仏国境沿いから攻めあがったようです。
陸軍大国であり、列強の1つでもあるフランスが呆気なくドイツに敗れ降伏したことは
世界に衝撃を与え、ドイツによる新秩序が現実味を帯びてきたのでした。
フランスの敗北で大陸への足掛かりを失い、本土へ逃げかえるしかなかったイギリスですが、そのような状況にあっても、決して諦めませんでした。
ウィンストン・チャーチル首相の演説は有名ですね。
『我らは最後まで戦い続ける。フランスで、海で、大洋で我らは戦う。
またいや増す自信と力とをもって空で戦う。
たとえいかなる犠牲を払っても、我らは祖国を護る。
浜辺で、滑走路で、野原や街路で、丘陵で我らは戦い、断じて降伏しない』
フランスは、かつてのヴェルダンの英雄であるペタン将軍を首班としたヴィシー政府が成立します。
対日石油輸出禁止措置。
今回のプレイでは、AIのアメリカが中々してくれなかったので、アメリカでプレイしてイベントを発生させました。
史実でいうABCD包囲陣の極めつけです。石油は近代国家の血であり、これがなければ軍事、民間ともに立ちいかなくなります。
石油の自活などできるはずもなく、輸入のほぼすべてをアメリカに依存していた日本は、この状況下で国家の存亡の危機となりました。
アメリカ以外の輸入先を探そうにも、その他産油地は欧米列強の影響下にあり、
輸入を認めてくれる国はありません。
また、黒竜江や黄海の油田は戦後に見つかったもので、1940年当時に採掘などできません。
石油が足りなければ海軍すら動くことができず、アメリカの言うがまま、なすがままとなることは避けられない。
マーシャル諸島沖に、大兵力を待機させ、準備。
ある程度準備が整ったなら、ハワイ作戦を開始します。
これを実行することで、日本に強力な戦闘ボーナスが付与され、開戦当初のみ優位に戦争を進めることができます。
空母を結集し基地爆撃するという戦術は世界史上、日本が初めておこなったことであり、
空母と航空機の戦略的価値は、改めて見直されました。
史実では行われなかった、第2次攻撃を行うか否か?の選択。
南雲提督がしり込みした、という評価もありますが、米空母の位置もわかっていないこの状況下、また奇襲効果が失われ、純然たる強襲になり被害も増大することを考慮すれば、第2次攻撃をしなかったことは決して失策ではなかったでしょう。
ただ、今回は第2次攻撃の実施を決断します。
第2次攻撃の実施で、日本航空隊にも少なくない被害を受けますが、
アメリカの大型空母『レキシントン』を撃沈することができます。
太平洋で、海軍がアメリカ相手にハワイ作戦を行っているさなか、
東南アジアでは、陸軍が大英帝国を相手に、マレー作戦を始めようとしています。
ニイタカヤマノボレ、ヒノデハヤマガタ...。