帝政復古したオーストリアに対し、列強各国は黙認。

ところが、かつてのハプスブルク家の権威が蘇ったことを恐れ、チェコスロバキアとバルカン諸国は小協商同盟を結び、ハプスブルク家の再びの退位を迫ります。

でなければ、軍事行動も辞さない小協商の強硬な姿勢に対し、オーストリアは選択を迫られました。

 

実際、帝政復古したとはいえ今だ軍事的に弱小であるオーストリアが単独で対抗できるはずもなく、ここはイタリア王国およびハンガリー王国に仲介を要請。両国ともにこれを受け入れ、伊洪の介入により、小協商は渋々ながらも引き下がりました。

 

 

この流れの中で、ハンガリーとの関係は劇的に改善され、オーストリアとハンガリーは緩やかな同盟関係を結ぶことができます。

 

 

ドイツと同じように、オーストリアも再軍備宣言。オーストリア帝国軍が再編されます。これにより、軍事的に弱体だったオーストリア陸軍が補強され、ドイツやイタリアといった列強には及ばないものの、周辺諸国(チェコスロバキアやユーゴスラヴィア)に対抗できます。

 

 

遠い極東では、満州国宰相の鄭孝胥が、満州を傀儡化する日本に抗議。

これを受けて日本は、満州の完全なる自主独立を認め、傀儡政権を解体しました。

 

『我が国(満州国)はいつまでも子供ではない』と日本に抗議した鄭孝胥。

史実では、関東軍に煙たがられて隠遁させられましたが、この世界の日本は非常に寛容のようです。

 

 

 

 

 

復活したオーストリアの体制を決めるイベント。

皇帝専制の独裁国家とするか、それとも立憲君主制を敷いた民主主義国家にするか、の選択です。

国家社会主義、共産主義といった脅威が吹き荒れる中、下手に民主主義に移行するのは政情不安定なオーストリアでは危険なので、現状としては権威主義的な独裁体制を敷くことにします。

 

民主化するのは、『戦後』で構わないでしょう。

 

 

 

遠い日本では、これまた政情不安定ため、若手将校によるクーデター、2.26事件が勃発。

未遂で終わったようですが、クーデターを起こした若手将校は『天皇皇陛下はわかってくださる』と考えたようですが、同じ日本国民の殺し体制転換を迫るやり方に、昭和天皇が憤慨し、自ら近衛師団を率いて鎮圧するとまで仰せられたようです。

 

 

 

 

かつて、マジャール人への妥協、アウスグライヒによって成立したオーストリア=ハンガリー帝国。

その姿を再び取り戻す時が来たのです。

オーストリアとハンガリーは合邦を声明、ハンガリーは『国王なき王国』ではなくなりました。

 

オーストリア皇帝はまた同時にハンガリー国王でもある、二重帝国の再興です。

 

 

 

オーストリア=ハンガリー帝国の再建で、ハンガリー軍が合流したことで、陸軍規模が大きくなりました。

これでもはや、中小国ではありません。列強には及ばないまでも、地域大国といっても差し支えないほどの国力を獲得したのです。

 

 

 

ドイツ、オーストリアの変革を目の当たりにしたベネルクス諸国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、同盟を締結し、対抗。

 

 

明らかに、オーストリアの独立を侵すつもりのナチスに恭順する必要などありません。

独墺協定は無条件で拒否。これにより、ドイツとオーストリアの関係は大幅に悪化しました。

 

 

そして、ソ連ではなんとヨシフ・スターリンが暗殺され、代わって『赤いナポレオン』と称されたミハイル・トゥハチェフスキーが書記長に就任しました。