おもに自分用の読み物として、HOI2のスペインとポルトガルの歴史情報。
スペイン共和国の歴史情報
スペインはアメリカとの戦争に敗れて、キューバ、プエルトリコ、フィリピン、グアムの植民地を失い、威信を大きく失墜させた。国内ではバスクやカタルーニャなどでの分離独立運動が活発になる。教会も政治へ干渉しはじめ、労働運動は過激化し、保守派とリベラル派のバランスが崩れた。
1902年に親政を始めたアルフォンソ13世は拡大主義を好み、モロッコに介入する姿勢を示した。1906年のアルヘシラス議定書により、モロッコにおけるスペインの権益が認められた。1912年にはフランスとともにモロッコを南北に分割して保護領とした。しかし、これは常に不安定要因ともなった。
第一次世界大戦中、スペインは中立を守った。1918年以降、社会的緊張が爆発し、地方住民や右翼、さらに無政府主義者らによる反乱が相次いだ。アルフォンソ13世は、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍による軍事クーデターを支持した。将軍は1876年に制定された憲法を廃止して、1923~1930年まで独裁政治を敷いた。
1926年にはアブデル・クリムを破ってモロッコの反乱を鎮圧したが、経済危機をコントロールする手腕まではなかった。結果、軍の反乱や学生の暴動が頻発し、辞任を余儀なくされた。1931年にはアルフォンソ13世も退位したことから、自由主義保守党のニセト・アルカラ=サモラ・イ・トレスが第二共和制を宣言する。
だが、ファランヘ党を筆頭とするファシスト派、王政復古派、保守派、左翼リベラル、社会主義者、共産主義者、無政府主義者、といったスペイン社会の政治勢力間の不和を乗り越えることはできなかった。そして1936年、イベリア半島に内戦の影が忍び寄りはじめていた。
政府には、勢力を拡大し続けるフランコとの内戦を避けるだけの政治的余地がほとんどなかった。多くの地域で反乱が起こり、軍隊の大部分が政府に反旗を翻している状況では、政府が長期間権力を維持できるかどうかは不透明である。
それでも世界中の民主主義勢力と共産主義勢力からの助力を得て、共和国をファシストの手から救うことができるのだろうか...?

スペインの歴史情報
1918年以降、社会的緊張が爆発し、地方住民や右翼、さらに無政府主義者らによる反乱が相次いだ。アルフォンソ13世は、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍による軍事クーデターを支持した。将軍は1876年に制定された憲法を廃止して、1923~1930年まで独裁政治を敷いた。
1926年にはアブデル・クリムを破ってモロッコの反乱を鎮圧したが、経済危機をコントロールする手腕まではなかった。結果、軍の反乱や学生の暴動が頻発し、辞任を余儀なくされた。1931年にはアルフォンソ13世も退位したことから、自由主義保守党のニセト・アルカラ=サモラ・イ・トレスが第二共和制を宣言する。
だが、ファランヘ党を筆頭とするファシスト派、王政復古派、保守派、左翼リベラル、社会主義者、共産主義者、無政府主義者、といったスペイン社会の政治勢力間の不和を乗り越えることはできなかった。そして1936年、イベリア半島に内戦の影が忍び寄りはじめていた。
フランコ将軍はスペイン人民の支持を得るために尽力してきた。そして今、その実が熟れた。これまでの成果を刈り取るときが来たのだ。スペイン中から幅広い支持を得て、頼りになる強力な軍隊を手にしたフランコは共和国を打倒すべく、いつでも内戦を起こすことができる。
フランコはドイツとイタリアからの援助を受けて勝利をものにできるのか。それとも敗北して闇の中に葬られてしまうのか。
スペイン(1941)の歴史情報
国民戦線を率いるフランシスコ・フランコ・バアモンデはカトリック保守派やファランヘ党と手を組んだ。さらにドイツとイタリアからの軍事支援を得て、1939年に人民戦線を倒した。
戦いに敗れた人民戦線もソビエト連邦やメキシコからの援助を受けていた。世界中から共和国支持者や社会主義者、共産主義者が国際旅団に義勇兵として加わり、人民戦線のために戦った。
フランコは1938年4月7日に防共協定に加わりはしたが、第二次世界大戦勃発の際には中立を宣言した。アドルフ・ヒトラーはフランコの気を変えさせようとしつこく誘った。ヒトラーとの交渉において、フランコは、戦後の世界分割に関してジブラルタル、仏領モロッコ、オランを含むアルジェリアの一部と、それ以外のアフリカの一部をスペインに渡すよう求めた。
だがフランコが最も強く主張したのは、イギリスによる海上封鎖による影響を、ドイツがすべて補填することであった。ヒトラーはこの負担を受け入れるつもりはまったくなく、交渉は打ち切られた。しかしフランコは物資と情報の提供については同意し、ヨーロッパでの共産勢力との戦いを支援する義勇兵部隊、スペイン青師団を送ることを約束した。1940年5月にフランスが降伏すると、アドルフ・ヒトラーはフランコとの交渉を再開する。
2人は1940年10月23日にフランスのアンダイで会見した。ヒトラーの最大の要求は、フランコにドイツ軍のスペイン領通過を認めてもらうことであった。ヒトラーはスペインを陸路横断してくる攻略部隊と空挺部隊とが協同でジブラルタルを攻撃することを考えていたのだ。
しかしフランコは戦争が長引けばドイツに勝ち目はないと考えていたので、この提案を拒否した。今や東方では共産主義勢力に対する聖戦が始まろうしている。スペインは中立を守り続けるべきであろうか。
ポルトガル共和国の歴史情報
19世紀のポルトガルは、同時期の他のヨーロッパ諸国と同様に共和国派と立憲君主派が対立して、国内に大きな亀裂が生じていた。1910年、共和主義者の将校が、ブラガンサ王朝のエマヌエル2世に対してクーデターを起こした。
共和国の初代臨時大統領となったテオフィロ・フェルナンデス・ブラガは、国民の自由の諸権利と家族法からの女性の解放を宣言する。しかし貴族階級の反対のために、農業改革は失敗した。共和国が王政の時代から引き継いだ最大の負の遺産は、荒廃した経済であった。当時ポルトガルの経済は、イギリスとの貿易に完全に依存しきっていた。
政局は安定せず、権力闘争が続き、1926年までの短い間に8人の大統領と44の政府が交代した。第一次世界大戦では協商側に参加したことが、事態をいっそう深刻にした。商船はドイツのUボートの攻撃により甚大な損害を被り、植民地との交易は崩壊状態となった。その後、事態は急展開を見せる。
1926年に2度の軍事クーデターが起こり、共和国憲法が廃止されたのだ。実権を掌握したアントニオ・オスカル・デ・フラゴサ・カルモナ将軍は、1928年の選挙を通じて正式に承認された。彼が作り上げた第二共和制は、この後何十年にもわたって続く独裁体制の基礎となった。
アントニオ・オリヴィエラ・サラザールが強力な権限をもった財務大臣として就任し、財政の建て直しを図った。そして1932年、サラザールは首相に選ばれ、ファシストを例にならった政治体制を確立した。