主に自分用の読み物として、HOI2のベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の歴史を網羅。
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http://ameblo.jp/link-shinxp/entry-12076854446.htmlベルギー王国の歴史

第二次世界大戦が間近に迫る中、ベルギーは重大な問題に直面している。ベルギーは第一次世界大戦の戦勝国であり、ドイツ帝国からの賠償金を受け取る権利を有している。
だがこの賠償金はいまだ支払われず、ベルギー経済は停滞していた。現政権である、中道左派勢力を中心としたポール・ヴァン・ズィーランド内閣は、経済を回復させることができず、国民の中には政権への反対の声が高まっている。VNVやレックスといった独裁主義政党や国粋主義政党が急速に票を伸ばしており、ナチス・ドイツに公然と接近している。
オランダ王国の歴史
オランダはヨーロッパにおいて中立を維持していたものの(ベルギーとの抗争は内紛であると宣言した)、海外の植民地では激しい抵抗に直面していた。1830年には、ジャワ島で起きた暴動を武力で鎮圧しなくてはならなくなった。スマトラ島では、1873年にアチェのスルタン王国との戦いが勃発したが、地元諸侯もアチェに加勢したために長期化し、終結したのは1904年のことである
。ケープ地方、セイロン、黄金海岸もオランダの植民地だったが、すでにイギリスに奪われていた。内政に関しては、1848年に、国王と勢力を伸ばしてきた自由主義運動派との間で、ひとつの同意に達した。国王ヴィレム2世は、自由党の指導者ヤン・ルドルフ・トルベッケの要求を受け入れる形で、自由主義的憲法を導入し、オランダを立憲君主国へと転換させた。
初代の首相はトルベッケが努め、当時としては近代的な政治体制を確立した。オランダは内政的には常に安定していたが、唯一の大きな争点となっていたのが人口統計に基づく選挙制度である。これは1917年から全国的な普通選挙を導入することで解決された。1894年には社会民主党が結成されたが、ヨーロッパの他の社会主義政党とは異なり、革命よりも改革を目指していた。
オランダはその頑なな中立政策が評価されて、1899年と1905年に大きな国際会議の開催国に選ばれた。その中でも特に重要な成果が、ハーグ陸戦法規慣例条約の締結であった。第一次世界大戦中も中立を維持したことで、ハーグに国際法廷が設置された。
ルクセンブルク大公国の歴史
ウィーン会議(1814~1815年)で、ルクセンブルクは大公国として承認され、オランダ王国の一部となった。オランダ国王が兼務するルクセンブルク大公は、同時にドイツ連邦の一員でもあった。1831年にベルギーが独立すると、1839年のロンドン条約でワロン地方をベルギーに割譲させられた。
1866年にドイツ連邦が崩壊すると、オランダは大公国をフランスに売却しようとして、ルクセンブルクは危機に直面したが、結局は正式に独立と中立が認められた。そしてオラニエ=ナッサウ家最後の男子継承者となったウィレム3世が1890年に逝去すると、オランダとの同君連合は終わりを迎えた。
ルクセンブルクではサリカ法によって、女性には王位継承権がないのだ。第一次世界大戦において、ドイツはルクセンブルクの中立を無視した。