※この記事は、桜の花出版「母国は日本、祖国は台湾」にある
コラム「大東亜戦争への途」をペースに記述しています
大東亜戦争(太平洋戦争)は、大日本帝国にとって最後の、そして最大の戦争となりました。
なぜ日本は戦ったのか?その原因を突き止めるには、100年ほど前の
幕末まで遡る必要があります。江戸末期、黒船来航から始まった日米の因縁、宿命とも言うべき運命。
日本の開国から追ってみていきましょう。
19世紀半ば、世界中を植民地にし略奪、搾取をほしいままにしていたのが列強と呼ばれた国々です。
列強に区分される国は、時代によって多少異なりますが、日本が開国した19世紀後半では主にイギリス、フランス、ロシア、オーストリアを指します。
のち、統一を果たしたドイツ帝国とイタリア王国が並んで列強の枠組みに入っています。
列強は主として西ヨーロッパの国々で構成されていたため、当時西欧列強と呼ばれました。
そして数々の国を滅ぼし、または従属させ、東進してきたのが西欧列強だったのです。
その魔手はとうとう東アジアに到達し、ついには東アジア一の大国と思われていた中国(大清帝国)さえもイギリス帝国に手も足も出ず惨敗。
次々と不平等条約を結ばされた中国は、西欧列強の半植民地と化し、自主独立の姿を失うことになりました。
この形勢を見て、日本にいた若干の先覚者は、次に欧米の牙が向くのは日本だと確信していました。その確信は概ね正しく、ペリーが来航したのは、中国の敗北からたった13年後のことだったのです。来航の目的は寄港地として開国してほしい、とのことですがしかし、軍艦4隻を率いた恫喝であることは明白でした。
ペリー来航は、江戸時代に約260年あまりに渡り太平の世を謳歌した日本人を騒然とさせ
同時に太平の終わりを意味する出来事だったのです。
国を閉ざし、海外の事情に無関心でいられる時期は永久に過ぎ去ったと。
ペリー来航の翌年、江戸幕府は日米和親条約を結び開国をしました。
開国してから日本が目にしたものは、周りがほぼ全て西欧列強に侵略されて植民地となったアジアの姿です。
江戸幕府は開国後、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアと、次々と日本に不利な条約を結ばされてしまいます。いわゆる安政の五カ国条約です。
弱腰に、外国に平伏する江戸幕府でしたが、当時の武士たちはこれを黙って見ていたわけではなく、反発します。
急激に高まった外国人排斥運動、いわゆる攘夷運動です。
とくに積極的に動いたのが薩摩藩と長州藩でした。
薩摩藩は、無礼を働いた英国人を斬り殺した生麦事件を発端として当時の大英帝国と戦争状態になります。薩摩と英国の戦争、薩英戦争です。
長州藩は、下関海峡を通過するアメリカやイギリスの商船を砲撃した結果、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四カ国の報復を受けることになります。下関戦争です。
この二つの戦いで、薩摩と長州は列強の軍事力を前に完敗します。
日本をはるかに上回る軍事力に驚愕した薩長の両藩は、攘夷が非現実的であることを認識し、逆に列強に接近。その技術力と軍事力の吸収をはかりました。
しかし、江戸幕府は旧態依然として脆弱。
江戸幕府に任せていては、日本に未来はないと判断した武士たちが立ち上がった結果、明治維新へとつながる争乱が始まるのです。
江戸幕府と維新志士は、手段の相違から二つに分かれて争いましたが、両者には共通する思いがありました。それは、『この美しい国、日本国を外国の手に渡してなるものか』という護国と愛国の精神だったのです。
数多ある革命とは、本来ある勢力が権力を奪うためにおこるものです。
しかし、明治維新は違いました。特権階級であるはずの武士たちが、その特権を放棄してまで日本の未来を思って、明治大帝に大政奉還したことで日本全国の意思統一を果たすのです。
武士たちが『私』を捨て『公』に殉ずる精神があったことで、維新回天の偉業を成し遂げ、外国の侵略から身を守ることに成功したのです。