1274年文永の役では、日本の抵抗によって撤退を余儀なくされた元・高麗軍。

3万の兵力も、島国への攻勢となるとこれまでの草原の戦いとは異なり苦戦を余儀なくされました。


しかし、元は日本侵略をあきらめず、2度目の日本侵略を計画します。





1281年(弘安4年)

弘安の役。2度目にして、元による最後の侵略となりました。


文永の役が3万の軍勢だったのに対し、弘安の役では約5倍に上る14万の大軍でもって、元・高麗は攻めてきたのでした。

この内訳は、東路軍5万(高麗中心)、江南軍10万(南宋中心)。



まず東路軍が5月下旬より対馬に攻撃を開始。その後江南軍が合流し、九州へ。

閏7月上旬に平戸(長崎)に総攻撃を開始しようとした前日(7月30日)に暴風雨の発生により、東路、江南軍は大打撃を受けます。




5月~閏7月と、元は約2カ月も海上に留まっていました。

その間に台風が来たのは、事実とされますが、これは果たしてラッキーでしょうか?

2日や2週間の間に、暴風雨に巻き込まれたならまだしも、2か月もの間海上に留まったなら、台風が比較的多い7月の間、それに巻き込まれるのは可能性として高いはずです。




まとめると


文永の役

●兵力3万

●やる気のない高麗軍が中心

●勝手に撤退していった

●日本は元の毒矢と新兵器『てつはう』に苦戦

●元の集団戦にも苦戦した



『てつはう』とは、鉄砲(銃)を想像しますが、火薬を使った爆弾で、

この爆音は日本の馬を驚かせ、騎兵の混乱を誘ったといいます。


また、個人戦を想定した武士の戦いと異なる、集団戦法をとる元の戦術は日本のそれを上回っており、当時の鎌倉幕府は手痛い被害を被ります。


文永の役の戦訓を、日本は無駄にせず、元の戦術、戦法を研究し、それに対抗するすべを考えました。

この国家防衛のための努力は、弘安の役で十二分に発揮されたといえます。





弘安の役

●兵力14万

●元軍は2か月もの長期間、海上に留まり台風に巻き込まれた

●日本は元軍の上陸を許していた



この中で、日本は

●元の集団戦法に引けをとらなかった

●鎌倉御家人の正確な弓射

●元の小舟に騎馬で突撃

●元の船に乗り込んで白兵戦を繰り広げた


元軍は志賀島に上陸を果たしたものの、海の中道で鎌倉幕府軍の迎撃にあい、その間に鎌倉御家人は元軍の船団へ小舟を使って乗り移り、船上で白兵戦を繰り広げました。

元軍が海岸に橋頭保を築いたと思ったら、鎌倉御家人はこれを強襲して奪還し、元軍の大規模上陸をことごとく阻止。



一向に上陸できない戦況に業を煮やした元軍は、艦隊を博多湾に集結。

総攻撃を控えた7月30日に、のちの日本で『神風』と呼ばれた暴風雨によって大打撃を受け、撤退することになります。







このように、

まるで鎌倉幕府がなす術もなく元軍に負けて、神風によって初めて元を追い払えたかのような認識は、正確ではありません。

当時、世界最強の帝国である元を退けたのは紛れもなく日本の底力であり、北条家率いる鎌倉幕府の大号令があってこそ打ち破れたのです。

万が一これに負けていたならば、その後の歴史は大きく変わっていたことでしょう。





国が苦境に立たされた時、日本人が団結して乗り越えてきたその姿は、元寇からも見えてくるのではないでしょうか。

この日本人の強さこそが、のちの世界でアジア唯一の先進工業国家として転身を果たす原動力になったのかもしれません。