1941年12月8日、とうとう日本とアメリカは開戦しました。


これが、私達の国・日本国が帝国を名乗っていた時代の、最後にして最大の戦争、大東亜戦争です。





開戦する前は、アメリカは日本の力を過小評価しており、特に支那事変(日中戦争)の長期化によって疲弊した日本は半年ともたず降伏するだろう、と言う見方さえあったぐらいです。


ところが開戦するや否や、日本は怒涛の快進撃を見せ、瞬く間に東南アジア一帯を占領下におさめました。並びにインド洋海域から英国海軍を駆逐。インド洋の制海権と制空権も掌握します。



アメリカは日本の快進撃を止めるため、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアからなる4カ国連合艦隊、いわゆるABDA連合艦隊を編成しますが、これもロクに見せ場がないまま壊滅します。

開戦から約半年間において、日本はまさに無敗にして無敵でした。



戦局の逆転をもたらしたのは、

ミッドウェー作戦の失敗からです。

ミッドウェー作戦とは、太平洋方面に浮かぶアメリカ領ミッドウェー島の攻略作戦です。

この作戦が行われた背景は、ドーリトル空襲が原因でした。





●良くも悪くも、有名なのが山本五十六連合艦隊司令長官です。

航空機の運用と言う先見性に秀で、真珠湾攻撃の大成功をもたらした一方、ミッドウェーの大失敗をもたらします。


1942年4月、大日本帝国の首都(帝都)である東京に、突如アメリカの爆撃隊が押し寄せます。

これまで連戦連勝を誇っていた日本は「首都が爆撃された」 「民間人が死傷した」という2つの大失態を犯し、軍部は民間の激しい非難に晒されます。



権威失墜をした軍部は「汚名返上を図るため」「再度の空襲を阻止するため」という名目でミッドウェー島攻略作戦の遂行を決定しました。

これが1942年6月に行われたミッドウェー作戦です。


ところが、この作戦には多くの問題、致命的ミスが存在し、まさに失敗するべくして失敗したというべき内容だったといえましょう。

ミッドウェー作戦で行われた内容に関しては極めて有名ですから、詳細は省きます。





山口多聞中将。

空母3隻が戦闘不能になった後、残った1隻で奮闘しますが、これも継戦不能になり、軍艦と運命を共にしました。


日本は、この作戦において空母4隻と航空機300機を失う大損害を被り、戦争の主導権を失いました。

とくにこれまで戦争を主導してきた主力空母を失い、かつベテランパイロットと多くの航空機を喪失したことは、日本にとって痛恨でした。


航空母艦はまだ残ってはいましたが、太平洋において積極的作戦を取ることはもはや不可能に陥ったのです。

この後、アメリカのガダルカナル島攻略作戦、いわゆる望楼作戦の開始によって、日本の攻撃は終焉を迎えました。

これ以降、日本は終戦まで守勢に回り、2度と攻勢には出れませんでした。




一木清直大佐。アメリカに占領されたガダルカナル島奪還作戦に、帝国陸軍の精鋭と言われた一木師団が差し向けられますが、即座に壊滅し、一木大佐も自決しました。

日本軍は当初、ガダルカナルの米軍は偵察部隊にすぎないと、その規模を侮っていました。

鎧袖一触で打ち破れると思った米軍は、日本軍が予想した10倍近くの規模だったのです。





1943年11月。

日本は大東亜会議を開きます。

日本の手によって、欧米列強の手から解放され独立した国々と、日本帝国の間で開かれた会議です。

この中で日本は、全民族の平等、共同、繁栄を標榜し、アジアの団結を掲げました。


出席した国々の代表者は日本を絶賛し、まさに「アジア人のためのアジアを取り戻す」、そのために大団結をすることを確認しました。


アジア民族よ今こそ一つになれ、という願いのもとに開かれたのでした。




...しかし、日本はミッドウェー後に立ち直ることはなく、1944年6月のマリアナ沖海戦では、日本自慢の機動部隊は壊滅し、再起不能になります。

もはや海上での優位を取り戻すことは敵わず、

1945年を回るころには、日本は東南アジアどころかフィリピン近海からも追い出されていました。



1945年2月には、日本近海の硫黄島まで攻め込まれました。

硫黄島の日本軍を指揮していた栗林忠道中将は、持久戦によりアメリカの出血を強いますが、最後には自決します。





栗林忠道中将。硫黄島作戦においてアメリカを大苦戦させました。

これによってアメリカは「硫黄島ごとき小さな島でこれほどの損害を出したのだから、日本本土ではどれほどの血を流さねばならないのか」と、日本本土決戦を消極的にさせたと言われています。



1945年3月にはアメリカの沖縄上陸作戦、いわゆる氷山作戦が始まります。

軍民一体となって戦った日本も、アメリカの圧倒的物量に成すすべなく、3カ月後に沖縄は陥落。



この2カ月後、日本は二つの原子爆弾投下並びにソ連の参戦を経て、ポツダム宣言の受諾により降伏。

日本の降伏を持って、7年間に渡った第2次世界大戦は終結しました。




●1945年9月2日。戦艦ミズーリ号にて日本は降伏文書に調印しました。

ミズーリの名は、かつて黒船の来航時、ペリーが旗艦としてのっていた船です。



身も心も疲れ果て、空襲で焼け野原になった日本に、かつてアジア一の先進工業国であった面影は残ってはいませんでした。




ペリーの来航から約90年後。


日本はアメリカに膝を屈する結果に終わりました。
しかし日本の戦いと、その想いは決して無駄だったわけではありません。



日本は、450年間にわたって地球上でやりたい放題を繰り返してきた欧米列強を、アジア植民地から一掃したのです。

日本の戦いを間近で見たアジア諸国のみならず、アフリカの大半の国までも白人の支配から独立することになったのでした。





その日本を評価する声を、3つだけ紹介して終わります。




★タイのククリット・プラモード元首相



「日本のおかげで、アジア諸国は全て独立した。


日本というお母さんは難産して母体を損なった。

しかし、生まれた子はすくすく育っている。


今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話せるのは、一体誰のおかげであるか。


それは、身を殺して仁を成した日本と言うお母さんがあったためである」



マレーシアのラジャー・ダト・ノンティック元上院議員


「私達やアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。

日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、
とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、感動と自信を与えてくれました。

永い間眠っていた“自分たちの祖国を自分たちの国にしよう”という心を目醒めさせてくれたのです」
...

★インドネシアのモハメッド・ナシール元首相、世界イスラム教徒会議副議

「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。
大東亜戦争は私達アジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。

大東亜戦争というものは本来なら私達インドネシア人が、 独立のために戦うべき戦争だったと思います。

もしあの時、 私達に軍事力があったなら、私達が植民地主義者と戦ったでしょう。
大東亜戦争はそういう戦いだったんです」