第一次大戦終結後、世界秩序は大きく変わりました。
中欧同盟の中で最後まで奮闘したドイツ帝国は、1918年の最終攻勢の失敗を期に、民衆の革命が起こった結果、帝政は打倒されてワイマール共和体制になります。
オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国も同様に、敗戦を契機としてその体制は終焉を迎えます。
翻って、大戦後に国際的地位を大きく向上させた国がありました。
一つが大日本帝国です。
日本は第一次大戦のさなか、いわゆる『大戦景気』によって未曾有の好景気となり、日本の工業化は大きく進展します。
また、日本は第一次大戦時に捕虜となったドイツ兵に対して手厚い配慮をしたことが有名で、その結果、日本は世界の一流国の仲間入りを果たして五大列強国の一角を担うことになるのです。
これは当時の白人至上主義的世界のなかで、肌の黄色い日本人が成し遂げた栄誉でした。
もう一国がアメリカ合衆国です。
アメリカ合衆国も大戦景気を向かえていましたが、日本とは異なるのが欧州戦線に積極的に介入したことでした。
協商連合に対する武器供与などを含め、日本以上に連合国の勝利に貢献しました。
アメリカは大戦後、その存在感と影響力を増大させています。
そして第一次大戦後の1920年ごろ、すでにこの時点でアメリカ合衆国は日本が米国の拡大政策の障害であると認識していました。
まず、1921年に行われたワシントン会議。
これは表向きは日本、イギリス、アメリカの軍艦建造競争に歯止めをかけるためで3国の無益な軍拡を止めよう、というものでした。
しかし、本質はロンドン・タイムスに書かれた通り日米両国の政治的決闘でした。
日本を排除したいアメリカにとって、最も邪魔なのが日英同盟の存在です。いかにアメリカといえど、日本・イギリスの2大海軍国を相手にするのは聊か無理がある。だからこそ、なんとかして日英同盟を解消させたかったのです。
日米にとって、最初の政治的対決というべきワシントン会議は、アメリカの圧勝に終わりました。この中で日英同盟は『そもそも対ロシアを想定して結ばれたはずだ。ロシアの脅威が消失した今、同盟の意義は薄れている』という論理のもと、解消させます。
さらに、日本の海軍はアメリカ・イギリスの7割までという制限を加えて、日本の海軍力を劣勢たらしめることに成功したのです。
代わりに結ばされた四カ国条約は、歴史学者の大川周明氏が指摘した通り、フランスよりも西太平洋に多くの利権を持つオランダを入れていないことから、形だけの条約でした。
まさにアメリカの思惑通りとなったのですが、これでも満足はしませんでした。
ひたすら西へ西へ拡大してきたアメリカ合衆国にとって、広大な太平洋とその先にある中国。いまだ特定の国の独占下にない中国市場。
アメリカが欲しいのはまさにそれでした。
したがって、アジアでの指導的地位を固めつつある日本とは、その政策上、衝突は不可避だったのです。
次に日米の対決となったのがロンドン会議です。
こちらも、さらなる日本の海軍力制限を強いられたものでした。
我が国の歴史では、ワシントン会議およびロンドン会議は、海軍軍縮会議と教わりますが、決してそのような単純な会議ではないのです。
アメリカの拡大政策、政治的意図を多分に含んだ、日米の対決でした。
アメリカの政策の矛盾とその狡猾さ、傲慢さは、英帝国のそれに優ります。
大川周明氏の指摘は、アメリカ合衆国の政策は矛盾を鋭く突いています。
●自ら国際連盟を提唱しながら、その成るに及んで之に加わろうとしない。
●不戦条約を締結して、戦争を国策遂行の道具に用いないということを列強に約束させておきながら、東洋に対する攻撃的作戦を目的とする世界第一の海軍を保有しようとする。
●大西洋において、米英の海軍比率10:10が何ら平和を破ることないと称しながら、太平洋においては日米海軍の7対10比率さえ平和の脅威と力説する。
●ラテン・アメリカに対しては門戸閉鎖主義を固執しながら、東亜に対しては門戸開放主義を強要する。
アメリカ合衆国の目的は、昔よりの西進。まだ利権が確定していない中国大陸に進出し、その巨大マーケットに参入することが最大の目的でした。
その障害たる大日本帝国を敵視し、あれこれと理由をつけてその排除を図ったのですが、上記の政策はその一貫だったのです。