明治維新を成し遂げた日本は、
近代国家への第一歩を踏み出します。

その大きな課題は、江戸幕府が結んだ、関税自主権の欠如、治外法権の承認などを混ぜ込んだ不平等条約を改正することでした。




明治政府は、戊辰戦争の最中から外国に対し働き掛けていたことが功を奏し、明治政府が日本の正当政府であることを、外国に認識させることに成功しています。

そして、江戸幕府に変わって成立した明治政府は、不平等条約も引き継ぐことになります。





明治新政府は、不平等条約改正のため、岩倉具視を団長とする使節団【岩倉使節団】をつくり、まずアメリカを訪問しました。


しかし国書を携えていないことを理由に、岩倉使節団は全く取り合ってもらえませんでした。

イギリス、フランス、ロシア、オランダ国も同様に、条約改正には全く取り合ってもらえず。

ここから使節団が実感したのは「対等な付き合いをするには、対等な力が必要である」ことでした。



使節団は他に、ロシア、ドイツ、オーストリア、ベルギー、、デンマーク、スウェーデンなど多くの国を訪問しています。

この使節団の目的は、不平等条約の改正のほか、もう一つ大きな目的があり、

それは「西洋の先進的な技術を直に見て、触れて、その知識を日本に持ち帰る」ことです。

発展した西洋文明、技術、その知識を日本にもたらすことで、日本も西洋同様の発展を目指そう、というものでした。


日本がこのように、不平等条約改正の為に欧州を歴訪し、近代化の為に奮闘していた傍ら、隣国の朝鮮は頑なに開国を拒んでいました。








朝鮮が開国を拒む理由は、アジアには大中華を自負する清がいる。だから清につき従うことで何も問題はない、という思考でした。

その清は近代に入りアヘン戦争、アロー戦争、清仏戦争と、西欧列強との戦いに悉く敗北し、もはや権威を失い果てていました。

中華秩序など時代遅れであることに気が付けず、古い価値観にしがみついていたのが朝鮮だったのです。




しかし、朝鮮半島の地政学的な意味は、日本にとって非常に重要です。

古代、白村江で敗北した日本は、唐と新羅の脅威に備え九州の守りを固める必要が生じ、

中世では、元に属した高麗は、大軍を率いて朝鮮半島より日本に攻め込んできました。



すなわち、朝鮮半島が敵国の支配するところとなれば、日本の安全保障は重大な脅威にさらされる。

これは日本の歴史的な教訓でもあります。

ただ、脆弱な清に朝鮮を任せておけば、将来、ロシアの南下を止められないと、日本は判断したのです。



日本は1875年に起きた江華島事件をきっかけとして、朝鮮との間に「日朝修好通商条約」を結びます。この中で日本は「朝鮮は自主独立国家であり、日本と朝鮮は平等の権利を有する国家である」と謳いました。

しかしながら、日本より20年遅れ開国した朝鮮は政権闘争に明け暮れた揚句、事大主義的思考で日本のような近代化は進みませんでした。



これまで通り中国(清)に従うべきだとする主張、清の影響から離れ朝鮮は独立すべきとする主張、日本と組むべきだとする主張が反目していたのです。

日本は【開化主義者】と呼ばれる朝鮮の独立派を援助していました。



しかし、近代に入って属国、朝貢国の離反や喪失を繰り返していた清にとって、朝鮮の動向や、日本の朝鮮独立促進は看過できるものではありませんでした。


日本と清は対立する中で、日清はお互いに通告なく朝鮮半島に軍隊を送らない、という取り決めをしました。




ところが、1894年に起きた甲午農民戦争、いわゆる東学党の乱をきっかけに、は日本に断りなく朝鮮へ出兵し、開化主義者の掃討を始めようとしました。


対する日本も、清の思惑を阻止するために出兵。

これによって始まったのが、日本の戦い日清戦争です。


朝鮮の独立を求めた日本と、朝鮮の従属を維持しようとした、と言う構図の下で両国は争いましたが、世界はこの戦争にさほど注目はしていませんでした。


いってしまえば、極東は辺境の地です。さらに、日本は明治維新を果たしたとはいえ、取るに足らない小国。どうせ、が勝つに違いない、と。



しかも清は、日本からすれば大国です。我の何倍もあろうかという巨大な国に、日本は確実な勝算があって立ち向かったわけではありません。

しかし、日本は退くことはできなかったのです。



当時の日本国民は、はじめて外国との戦争をすること、その相手が清であることに不安を覚えていました。

ところが戦争は、終始日本が優勢のままに進みました。軍の規模でこそ言えば、清のほうが有利。しかし、近代的軍隊をそろえた日本軍は、装備でも士気でも清を上回っていたのでした。


結果、日清戦争は世界の、また日本国民の予想を裏切る形で、日本の圧勝で終わりました。






戦争の結果、日本は清に朝鮮独立を認めさせたうえに莫大な賠償金を受け取り、台湾に遼東半島という、日本にとって初の植民地を獲得しました。

下関条約です。

日本自体の『富国』も『強兵』も半端なままで外国の領土を獲得したのはすぎた戦果ではありましたが、日本国民は歓喜したのでした。




代わって、敗北した側の清はその脆弱さを諸外国に露呈するところとなり、列強による中国分割は加速度的に増していったのでした。