何度か話題に上げた、日露戦争のことを少し書きます。



日露戦争は明治37年に起きた、当時の日本とロシアの戦いです。


とりあえず、今回は日清戦争、三国干渉のところは省くことにします。

本当は重要な部分でありますが。




当時のロシアは露骨な領土拡張を図り、満州そして朝鮮半島へも手を伸ばしてきました。

ロシアが朝鮮まで進出してきた理由は


①凍らない港が欲しい

②太平洋、あるいはインド洋への出口を得る


ロシアは非常に寒い地域です。港も一年の大部分は凍りついて使えません。

だから一年を通して使える、暖かい地域の港を求めました。

そして、大陸国のロシアが外洋へ出る一歩としたかったことが、進出の主な理由です。



対する日本も、これを許すわけにはいきません。

朝鮮半島は戦略上、日本の生命線だからです。


7世紀、白村江の戦いで日本は唐・新羅連合に敗れ、朝鮮半島は敵対していた新羅のものとなりました。

13世紀、の勢力下となった高麗は、日本海を渡って日本に攻めてきました。


朝鮮半島は、日本にとって極めて重要な生命線です。

この地域が、敵国、とりわけ大国の勢力下となった時、日本の存立は極めて危険なものとなります。

逆にいえば、日本を攻めたいとき、朝鮮半島をまず確保することが肝要なのです。


もしも朝鮮半島がロシア帝国の統治下となったらば、すぐ日本に攻め込める位置に海軍基地がつくられ、

ロシアの戦艦が目の前にあると言う脅威を受けることになったでしょうし、

もう少し先の時代なら、すぐそばの朝鮮から、爆撃機が東京に飛んできたでしょう。

すなわち

朝鮮半島を守ることは日本の安全保障

だということです。


これまでの時代の教育だと

日本とロシアの戦いは、満州の勢力圏を争うもの、として教わっていると思います。


それは間違いではありませんが、重要なのは

日露戦争は、日本の存亡がかかっていた

ことを覚えておくべきです。

だから日本は

絶対に朝鮮をロシアに渡すわけにはいきませんでした。


ところで、ロシア帝国は当時、日本をかなり見くびっていました。

極東のロシア軍総司令官であるクロパトキンは


「日本兵3人に対し、ロシア兵は1人で足りる」

「日本との戦争は、ロシアにとっては散歩程度にすぎん」


と、日本を舐めきった発言をしています。

ロシアは、アジアの野蛮な猿、日本人ごときは

問題にはならないと思っていたのです。




●ちなみに当時のロシア皇帝ニコライ2世は、日本の文化を好む親日家でしたが、

日本と戦争となってはロシアのため、日本蔑視の発言を繰り返しました。



ところが、いざ戦争が始めると

日本軍は勇猛果敢な戦いぶりを見せ、

ロシア軍相手に互角以上の戦いを繰り広げます。

世界最強と噂されたロシアのコサック騎兵

相手にも一歩も引けを取らず、

ロシアは日本の恐るべき底力に驚愕したと言います。




日露戦争の絵画。




陸では奉天会戦、海では日本海海戦で大勝利を収めた日本は、アメリカの協力の下に

ロシアと講和を結ぶことに成功し、日露戦争は幕を閉じました。

世界はこれを日本の勝利と認識することになります。

この勝利によって、子供扱いされていた日本は、

国際社会から大人として認められることになりました。







●ポーツマス条約と呼ばれる日本とロシアの講和会議により、

日本は朝鮮が日本の勢力圏であることをロシアに認めさせ

かつ満州の鉄道の一部を手に入れることに成功します。






●戦争終結に一役かったのが、アメリカ合衆国第26代大統領である

セオドア・ルーズベルトでした。

ロシア皇帝と同じく彼も親日家であり、戦後、日本の武士道を絶賛しています。


...

ところで、果たして日露戦争は日本の勝利と言えるでしょうか?

確かに日本は戦闘では大きな犠牲を払いつつも、勝利を収めました。

しかしながら、戦闘で勝つことと

戦争に勝つことは全く別の問題です。


日本は戦争を続ける余力がありませんでした。

当時、国家予算が2億3億の時代に、日露戦争に費やした金額は20億近く。

もはや弾薬も尽き、砲弾も尽き果て、食糧の供給すら困難になるほど

日本は切羽詰まっていたのです。

もし、戦争が続いていたら?日本は確実に敗北していたでしょう。

対するロシアは何故講和に応じたのでしょう?



当時のロシアは連戦連敗で、もう戦争は嫌だというムードが漂っていました。

しかし民主主義の国と違い、ロシア帝国は皇帝専制の絶対君主制ですから、国民がどれだけ嫌だと言っても、皇帝は戦争を続ける決断をすることができます。


そうなると、爆発するのは国民の不満です。

当時のロシアは、「社会主義者」と呼ばれる思想をもつものに扇動され、暴動やデモが相次ぎます。

これを鎮圧するため、ロシアは国軍を投入せざるを得なくなり、

日本との戦争を続けるのが困難になりました。




●戦争のせいで国民生活が圧迫されたことで、

大規模なデモが行われるようになり、「血の日曜日事件」と呼ばれる

流血沙汰まで起こります。



これ以上戦争をつづけたら、国民の不満が大爆発し、

革命が起きて帝政が打倒される恐れがありました。



日本もロシアも戦争を続けることができず、日露戦争は終結しました。

果たしてこれが、日本の勝利といえるのか?

という議論は今もあります。

日露戦争は引き分けだ!という意見もあります。


しかし戦争の勝利というのは、戦争目的を達成したか否かにある、

とはドイツのクラウゼヴィッツの言葉です。


日本の戦争目的は

第一にロシアの進出を止めること

第二に朝鮮を守ること

でした。この二つは見事達成されています。


ロシアの戦争目的は初めに述べたとおりです。

いずれも達成できず、ロシアは極東から手を引くことにしました。

日本の抵抗が想像をはるかに超えて苛烈だったからです。

この後ロシアは日本との関係改善を図り、第一次大戦では同盟国となっています。


こうしてみると、明らかに日本の戦略が達成されており、

戦後、ほぼ日本の望み通りの形となったことを考えれば、日本の勝利と言えるでしょう。