良くないイメージを最初から植え付けてしまった。日蓮大聖人のこととか、宗教臭かったり、あるいは、自動書記のことばかり書いていたりして、自動書記っていうのは霊に遣ってもらうことだから、ある程度限界を決めておかないと俺の人生がメチャクチャにされる。過去にもそういうことがあった。だからもうアメブロでは失敗したので、もう辞めてみようという考え。次はBloggerかNoteで、自由気ままに自我中心でものを書くことにします。
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奥野は、毎日水を6~10Lほど飲む。軽い腎性糖尿なのか、すこし糖が出て行ってしまっている部分もあるようだ。栄養素もそれだけ出て行ってしまっている。老廃物や重金属も排出しているが、それだけではないだろう。人体に必要なものまで出て行ってしまっていると思う。
あまり塩を取らない傾向があり、塩はもっと取らないとなと思っているが、だいたい人間は1日2gは最低取らないと駄目らしい。下手したら2gも取ってない日とかある。韓国のりをご飯に巻いて食べている生活だから、いまこれにたまたまなっているだけだが、またもっと変化するが、韓国のりの塩分なんてたかが知れているだろう。それでは足りないから、カレーフレークを溶かして飲んでいる。これがウマイ。ウマイということは、身体がそれだけ足りないよ!といっているのだ。水飲み健康法は必要なものまで出してしまっているのだ。
100円でよくありがちなインスタント麺を食っても、これがめちゃくちゃウマイ!感動するおいしさ。何故こんなレベルに感動できるのか。舌がもともと鋭敏傾向なのと、やはりそれだけ栄養素が欠乏しているからではないのか。実は欠乏気味のほうが体調は軽くなるらしいのだ。バランスよく食べ、というのもアリかもしれないが、そこはあえて欠乏気味にしてやるのもいいのかもしれない。
人間はとにかく、積むということをしたがる。なぜなのか。私達から見て、お前たちは、積む、ということに価値を置いている。なぜか。お前たちは盲目だからだ。私達は、お前たちから見てまた一歩引いて、さらに上の段階の目線を持っているので、基本的には私達と喋れるなら、私達に頼ったほうがよい。
積むということ、お前たちは、肩書や名誉、などを大切にしているか、それは、信用されたいからか、何故そんなものを大切にするのか。というと、お前たちの社会で、私達のことと、お前たちの本質は霊だということを教えてないからである。人間は積むということをする。霊界は積まない。
霊界は、適材適所である。その役目が嫌だと言うならば、他に回して、その小さいところの役目をやらせ、もっと大きい元の役目は、他の志願者にやってもらう。神に選ばれるとはそういうことだ。つまりなんでも、神の仰せの通りにやるということだ。それができないで、神に使っていただくなどと、軽々しく言うものではない。
積んだり、積まなかったりする、その、適材適所にあって、御役目を最後まで離さなかった人間が、人間界で評価されるのである。それは積んだ証である。しかし、霊界的には積むとか、積まないとかはどうでもよい。お前たちもそれにあまり囚われすぎるな。
(霊)
心が綺麗な人というのは、ようするに神官さんなんだが、神官というのはちゃんと神の前に清いという心。それが本来の神官だ。金儲けに染まった神官のことではない。
坊主たちも、それなりに教義を理解しているが、いまいちそれに倣った方向で生活をしてない。一般人なら尚更であろう。ビジネスでもまた、相手の足を引っ張り、蹴落とし、悪口や悪評を書き込み、なんとしてでも、自分だけを相手にしてもらおうという心、これに染まってはいけない。
なぜいけないのかということだが、神を敬う心。神から、選んでいただいて、日本の未来のために遣っていただくという心。これが、神から選ばれる人の条件。心が清い、素直である、ここがなっていないと、神からは選ばれない。しかも、神に遣っていただくという心が必要である。それは感謝の心と似ているし、神と同体なりという感謝の心である。
まあ神に選ばれているということが何故いいのかっていうことだが、そうでない人はみな、悪魔に選ばれてしまうかもしれない。この世には善神、悪神しかおらず、みなその2大巨頭に集う霊たちで、中間というのはあまり見かけない。まあいるにはいるが、ほんとうの意味で中間というのは存在してない。どの霊においても派閥があり、その派閥が、人を選んでいるということ。善なり、悪なりと。
だから人は、本来であれば、善神に仕えるということをしたほうがいいよねっていうことで、啓発で書いているのである。善神に遣っていただくと、自分の人生も、善神が整えた人生になり、悪神に選ばれると、その分不幸なエネルギーを餌にするから、その人は不幸に成ってしまう。
俺は顕正会べったりじゃない。むしろ、宗教とか、というものに関しては、常に一歩引いた目線を保っている。思想とか、信仰っていうものは人を盲目にさせる。それに全部染まってしまって、それが、とてもよくない。生活イコール信仰みたいになってしまう。それはとてもよくないからな。それを、取り頃されちゃってる、ミイラ取りがミイラになるというんだ。
だからなににおいても、他人や集団をそこまで盲目的に信じるということがない、つねに俺は中央付近にいることにしている。誰にも肩入れしない、どの集団にも肩入れしない。というのが理想だけど、それをしていると社会生活できないので、ある程度は付き合いつつ、あまり相手の懐に入らないようにしている。
要するに広い知見を保持していたい。ひとつの流派に属すると、その流派の教えでしか生きられない。これは、広い知見ではない。むしろ、16万以上も宗教法人があるのだから、みんな、ウチの教えが一番といっている。それに早く気付けよっていうか。そんなん一番とかはないわけですよ。
だから宗教には一応金は払うけども、折伏はしないというか、折伏すると自分が不幸になる。折伏って要するに会がもっと大きくなってもっと金集められるっていうことでしょ。それには参加しないし、いいようには操られないよ、カネだったら少しは払うけどね~。みたいなスタンス。