手術前日の18日。
入院手続きをして、その後説明を受けた。
全身麻酔なので麻酔科のドクターが必死に説明してくれてたんだけど、自分はどこ吹く風で、「ちゃんと聞いてますか?」と聞かれる始末。
それに対して「全然」と答えた自分も相変わらず空気が読めないなと思ったけど、正直言ってどうでもいいこと。
麻酔事故が起こればドクターたちに迷惑かかるから嫌だけど、それは自分が注意してどうこう出来るものではないし、手術中に頑張るのは私じゃない。
頑張ろうとしない私の代わりに、ずっと治そうと努力してきてくれたのは譲先生たちで私じゃない。
だから説明をされたって聞く気になれなかった。
どうせなら局所麻酔で実際の手術を見れたら良かったのになぁ。

手術が終わって目を覚ました時の第一声は、
「Hell is just popular place(地獄って平凡なところ)」
だった。
言った瞬間横から伸びてきた手にはたかれたけど。

ICUを出て、HCUを出て、昨日一般病棟に移っていいと言われ、すぐに「じゃあ帰る」と言った私は本気で空気が読めないらしい。
でも、たとえKYと呼ばれても、病院にいるのは嫌い。
唯一の家族も、唯一の親友も、大切に思う人は一人も返ってこなかった。
それなのに自分は毎回そこを後にすることが出来る。
それが嫌い。
大切なものを奪うだけ奪っていくあの場所が嫌い。
譲先生も悟もそういう心情を知っててくれるから、本当はやってはいけないんだけど、昨日場所を移した。
ただし、条件は譲先生のお家にいること。
まあ病院のすぐ側にあるし、ドクターもいるし、悟だって一応内科医の免許は持ってるしね。

痛みを感じないってのはこういうときには便利なもので、麻酔が切れたときの痛みも感じなかったし、今も動き回ったところで痛いとは思えない。
引きつる感じはするし、息苦しくはなるけど。
ただ、気持ちとしては痛みはあってほしかったかな。
もう一度痛いって感じられれば、また生きてるって感じられると思ったのに。

とりあえず一日ベッドに張り付いて、ぽけ~っとしてるとついつい雅なことをしたくなるもので、散ってしまった桜の木を眺めながら久しぶりに歌を詠んだ。


ぬばたまの 暁闇(あかときやみ)夜 さくさくら
閉ざす心を こじ開けた君


月の光も星の光もない暗闇に咲く桜のように、その光で闇を切り裂いてくれたもの。
だけど、切り裂いたまま放っておくのであれば、それは優しさじゃない。
ただの偽善。
それでも、あの瞬間は間違いなく幸せなものだった。
来年は、ちゃんと咲いている桜の下でのんびりしたいな。
私を、死なせてください。




昔から空を仰ぐことが多かった。
好きだからとか、何か理由めいたことがあるわけじゃない。
motherが教えてくれたから。
空のさらに上、ずっとずっと先には天国があって、
そこには主が、神様がいらっしゃるのだと。
そこから、常に私たちを見守り、導いてくださっているのだと。
だから、何かあるごとに、何もなくても、空を仰ぐようになった。
幼い頃は、空を仰いでは呟くように願っていた。
自分のことを愛してくれる親がほしいと。
時が経ち、願いは諦めに変わった。
いつしか、空を仰いでも願わなくなった。
ただ、ぼんやりと空を眺める時間が増えていった。
そんな中で先日、一筋の流れ星を見た。
見上げた瞬間に流れた星に、気付けば願っていた。
「私を死なせてください」と。
不意に口をついた言葉だったけど、それはすんなりと心に染みとおった。
何の違和感もなく。
そして気付いた。
私は、もう生きていたくないのだということに。
死にたい、とは違う。
もともと、生きていたいと思ったことなど一度もない。
それを望んでほしかった人が望んでくれることもない。
分かっていたのに、分かりたくなかった。
気付いていたのに、気付きたくなかった。
それだけだったんだろう。
認めてしまえば、一気に楽になった。
憑き物が落ちたようにっていうのはこういうことなんだろう。

私は、自分を否定して生きてきた。
そうすることがあの人たちを、
私が私であることを否定しているあの人たちを、
私が私だからいらないと言い続けるあの人たちを、
肯定することになるから。
たとえ、道具や玩具のようにしか見てもらえなくても、
そのためにしか必要としてもらえなくても、
求められたことが嬉しかったから。
私が私であることを認めてしまえば、
あの人たちを裏切ることになる。
失望させることになる。
そんなことをすれば、私がこの世に産み落とされた理由も、
今まで生きてきた意味も、これからを生きていく意味も、
すべて失われてしまう。
何度も死を強要しながら、死を許してはくれなかった。
あの人たちに不利益になることを、許してはくれなかった。
だから、今度の願いも、自らで叶えることは出来ない。
いっそ、「私を殺してください」と願えばよかった。

その日を待つだけ。
あの人たちが望まなかった、「私」を否定し続けながら。
9月26日金曜日の朝早く、母方の御祖母様が天国の御祖父様の元に旅立っていかれた。
その知らせを受けてから今日、今に至るまでに、何度も色んなことが思い出された。


私がまだ8才だか9才だかの頃、一週間ほど、いわゆる「お泊り」をしていたことがある。
その間のことが、一番よく思い出された。
何をするにもお二人一緒で、たくさんのものを見せてくれ、経験させてくれた。

通天閣、大阪城、大阪遊覧船、広島・宮島。
観光にも連れていってくれた。
だけど、それよりも、
一緒にご飯を食べてくれたこと、
手を繋いで買い物に連れていってくれたこと、
自転車の後ろに取り付けた子供椅子に私を乗せて、近くの公園に遊びに連れていってくれたこと、
そんな何気ない日常の方が、鮮明に、とても大切な宝物のように思い出される。
御祖母様は毎朝、覚束ない手つきでも、必ず髪を結ってくれた。
子供ならではのツインテールに結われた髪は、大体が左右の高さが違っていた。
それでも、可愛らしい髪留め(プラスチック製のボンボンとかがついてるやつ)で縛ってくれて、最後には必ず、「出来たよ、可愛い」そう言って頭を撫でてくれた。
朝起きて階下に向かえば、朝食を作る手を止めて、必ず向き合って「おはよう。よぉ眠れたか?」と聞いてくれた。
体の弱かった御祖母様は、いつも一緒に出掛けられたわけではなかったけど、戻ってくると必ず、「おかえり。今日はどんなことしてきたん?」と話を聞いてくれた。
雄弁な方ではなく、どちらかと言えばおっとりと、黙って人の話を聞いていてくださる人だった。
そんな方が、私が「これ、美味しい」と小さく呟いた言葉を、これ以上ないくらい喜んでくださって、毎日のように作っては、「美味しい?」「今日のはどう?」と少し興奮気味に聞いてきた。
子供らしい、お絵かきやおままごと、お人形遊びなんかはしなかったけど、退屈を感じたことは一瞬もなかった。

どんなことも私には初めてのことばかりで、優しくされることに慣れてもいなくて、むず痒さに俯いてしまったこともたくさんあった。
あの時は、感じていたむず痒さが何なのかわからなくって、何も言うことは出来なかったけど、今はわかる。
あの一週間は、毎日が楽しくて、瞬間瞬間が幸せにあふれかえっていた。
あの穏やかな時間は、今なお私の中に残り続ける、大切な宝物になった。


今から二年半ほど前、御祖父様の七回忌の回忌供養で、久しぶりに御祖母様に会って話をした。
高校を卒業してから、初めての再会。
「よぉ笑えるようになれたんやね」
と、いつもと同じ穏やかな微笑みで、慈しむように言ってくださった。
それが、最後に交わした言葉になった。
私が人前でも笑えるようになったこと、楽しいことを楽しいと言えるようになったことを、とても喜んでらしたと、今日教えてもらった。

この回忌供養の数日後に脳梗塞を起こし、二年と数ヶ月。
眠るように旅立たれたと聞いた。
思えば、御祖父様も同じように脳梗塞で倒れられ、やはり同じように二年と数ヶ月の入院生活を送り、眠るようにして亡くなられたはず。
いつも二人寄り添い、誰から見てもわかるくらいに仲の良かった御祖父様と御祖母様。
最期の最期まで運命の赤い糸で繋がっていたのだろう。



人が亡くなるということは、何度経験しても慣れない。
親友、同級生、兄弟、親族、お世話になった方。
大切な人がいなくなることは寂しいし悲しい。
だけど、不幸なことだと思ったことはない。
「死」が不幸なことなら、人はみんな、どんなに一生懸命に生きてきても、最後には必ず不幸になってしまうということになってしまう。

だからと言って、「死」が幸せなことかどうかは、自分がそうなるまでわからない。
でも、そうであればいいと思う。

「幸せ」とは「仕合わせ」
「仕合わせ」とは「巡り合い」



どうか、安らかに。
虹の根元にはね、宝が隠されているんだよ。


子どもの頃、そんな話を聞いた。
今は知ってる。
虹は光。
私たちが近付こうとすれば遠ざかり、逃げようとすれば追い掛けてくる。
根元に辿り着ける日なんて来ない。
知ってしまえばロマンチックさのカケラもない。
けど、虹はその気になればいつでもどこでも作ることができる。
水と光さえあれば。
だから宝物、幸せはどこにでも埋まっている。
探して見付けられるものじゃなく、足元に埋まっているもの。
そして、誰にでも手に入れられるもの。
幸せとは、何気ない日常の中に埋もれているもの。



9才の頃だったか、大阪に住む母方の祖父母から戦争についての話を聞いた。
職業軍人として戦地に赴き、負傷し、右手に麻痺が残り、傷痍軍人になった祖父。
それでもなお国のためにと国内で軍人のまま働き続けた。
職業軍人とはいえ、厳格ではあっても優しく思いやりに溢れていた方だった。

戦争が始まり、生まれ育った祖国から日本への強制送還をされたという祖母。
小さい頃の私と同じ、明るい赤茶色の髪をしていた祖母。
日本人の血が混じっていたがために、見知らぬ地へと追い返され、かなりつらい(なんて言葉では済まないだろう)扱いを受けたと聞いた。
たどり着いたのは広島。
看護師として働き、被爆した。
そこで祖父母は出逢い、結婚し、母が生まれ、私が生まれた。

あれから68年の歳月が経ち、少しずつ語り聞かせてくれる人が身近にいなくなり、歴史を知れる機会も少なくなってしまった。
だからこそ、話してくれたことを覚えていたい。
覚えていなければならない。
話してくれた祖父母の気持ちと一緒に。
私の髪に触れ、「いい時代に生まれたね」と言ってくれた。
それを黒く染められた時、「どうして隠さなきゃいけないの」と涙を流してくれた。
「何も恥じることはない。隠そうとする人間こそが恥じるべきだ」と、私の代わりに怒ってくれた。
その優しさと、その奥に隠されていた強い思い。
それこそを覚えておきたい。
68年前。
今私たちの周りに当たり前に広がっている日常は、決して当たり前のものではなかった。
毎日、夜眠れば朝が来る。
朝が来れば変わらない一日が始まる。
毎日たいした苦労もなく日々の糧が得られる。
そんなことに何の疑問もなく過ごす毎日は、代わりのない幸せ。
あの惨劇があったからこそある今の日常。
しっかり噛み締めて生きて行きたいね。
何かに挑むこと。
何かから逃げること。

「挑」むと「逃」げる。
ほんのちょっとした違いしかない。
漢字もそうだけど、実際の行動だって同じかもしれない。

ほんのちょっとの勇気。
それがあるかないか、
出せるか出せないか、
出そうとするかしないか、
それで変わってしまうものなのかもしれない。



ずっと、変わりたかった。
「こうなりたい自分」、「こうしたい自分」がいた。
「変わりたい」「変わりたい」
そう思い、口に出すだけだった。
結局、そうすることだけで満足して、何一つ行動に移せていなかったような気がする。
それが、「変わろう」と思うようになった。
変わろうと思い始めたことで、色んなことに手を伸ばしてみようと、勇気を出してみようと思うようになれた。


色々トライしてみて、できたこともあれば、もちろんできなくて怖くなってしまったこともある。
それでも、できなかったことが悲しいと思う気持ちより、できなくて悔しいって気持ちの方が強かった。
「皆が皆同じようにできるわけじゃない」
そう言ってもらえても、頭ではそう分かっているけど、それでも私はできるようになりたい。
周りからすれば、きっとすごく簡単なこと。
多分100人いれば98人くらいは普通にできるようなこと。
そんなことすらできない自分。
それを、「できないんだから仕方ない」と諦めたくない。

頭では分かってる。
今自分の目の前にいる相手は、絶対にそんなことしないって。
信じてもいる。
それなのに、ほんの一瞬、ほんの少しのことで、体が無意識に反応する。
「また殴られる」
そんなこと、絶対にあるわけないと思えてるのに。

気を遣ってもらわないと一緒にいられないのは、すごく寂しい。
「ごめんね、大丈夫だから」
なんて言わせたくない。
相手が悪いわけじゃない。
いつまでも過去に捕われている自分が、乗り越えられない自分自身が悪いのに。
今までだったら、確実に逃げ出していた。
「もう嫌だ」「結局同じなんだ」って。
でも今回は違った。


触れた手を払い除けられること、拒絶されること、怖がられること。
そうなると分かっていたかもしれない。
でも、分かっていたとしても、傷つかなかったはずがないのに。
嫌な思いをしたはずなのに。
それでも、自分が悪かったと謝ってくれる。
それは、どれほどの強さなのか、どれほどの勇気なのか、どれほどの優しさなのか、私には想像もつかない。
それが嬉しくて、でも申し訳なさすぎて、何より悔しかった。
あの時ほど、「変わらなきゃいけない」と思ったことはないかもしれない。



「変わりたい」が「変わろう」になった。
本当にただそれだけだった。
そのきっかけをくれた人がいる。
私を知りたいと、私と話したいと思ってくれている人がいる。
どんなに話しかけてもらっても、素っ気ない、必要最低限の一言しか返せなかった。
なのに、それでも何度も何度も声をかけ続けてくれる人がいる。
「変わりたい」と思っていた時には気づけなかった。
それはとても尊いもの。
「変わろう」と思えた時、やっと気づけた。
そして、それに気づけたからこそ勇気を出せたのだと思う。
まだおっかなびっくりで、どうしていいのか分からないことも多い。
それでも、振り絞った勇気以上の結果を返してもらった。
次につながるたくさんの希望をもらった。
だから次からも、
「怖いから逃げ出す」
じゃなくて、
「怖いけど挑もう」
と勇気を出していきたいと思う。