現代は昔に比べて「もの」が圧倒的に多い。ここで言及している「もの」というのは、人間が日常生活で利用するものであり、鉛筆、本、携帯電話、飛行機やパソコンを含めたあらゆるものである。「もの」が昔より圧倒的に多いのは、科学技術の発展が著しい現代では、当然と言えば当然である。

一方、芸術というものは、昔からずっと変わらずに存在しているものである。変わらずにというのは時間が経っても芸術の風潮や特徴が変わらないということではなく、「存在すること」に変わりがないという意味である。

前述した通り、現代と昔では、そもそも存在している「もの」の多さが違うから、現代の芸術と昔の芸術に関連する「もの」の種類や数も圧倒的に違う。

文学を例とすると、現代の小説と昔の小説を比べた時に、同等の量であった場合(例えば、二冊の本が200ページなら200ページであるとすると)、その中で出てくるあらゆる「もの」の数は現代の方が圧倒的に多いはずである。(勿論、ジャンルなどによっても変わってくるが、一般的にである)それは現代と昔では、何回も言及している通り、そもそも存在している「もの」の数が違うからである。

昔の小説と現代の小説が同等の量であった場合、それぞれの小説の中に出てくる「もの」の数は現代の方が圧倒的に多いが、だからと言って、昔の小説の内容が希薄化されることは決してない。昔の小説は、現代の小説に比べて、出てくる「もの」は少ないが、内容はとても深遠なものが多いと思う。

存在している「もの」の数は大きく違うが、昔でも現代でも、「人間」というものは変わっていない。ここで言及しているのは、「人間」というものが不変という意味ではなく、人間自体、人間の本質、または、人間性というものが変わっていないという意味である。

これを踏まえると、昔と現代を比べた時に、同じ量だとすると、昔の小説の中には「もの」が少ない分、より人間自体であったり、人間性というものに焦点が当てられると思う。現代の小説と比べて、人間そのものが本質的に、また先天的に人間の内側で抱えているもの(歓喜、悲嘆、憤怒、嫉妬、罪悪感など)がテーマや題材になっている作品が多い。また筆者はテーマや題材を決めたあとに、そこに自分を取り巻く環境(当時の社会や風潮など)を踏まえながら、創作する。(作品の中に自己投影させることもあるが)そうすると内容はより複雑化してくる。従って、その分昔の文学作品はとても深遠な内容となっていることが多い。

同じことが音楽にも言える。昔は現代のようにパソコンなどで簡単に音を作り出すことが出来ないし、クラシック音楽などは、歌詞もないため、メロディーやリズム、または単純に「音」だけで自分の表現したいことを表現するわけである。作曲者は、自分の内面から込み上げてくる人間誰もが感じたことがあるようなものを自分の作品の中へ反映させているように思える。昔の作品は、現代の作品と比べて、人間の本質をより表現していると感じる。

だからと言って、現代の作品を侮蔑している訳ではなく、単純に昔の作品は現代の作品と比べて、「人間性」というものがより作品の中で滲み出ていて、内容もより深遠であることが多いと言うことを言及したいだけである。

畢竟、昔と現代を対比させた時に、それぞれの文化や芸術においての「人間性」というものの位置付けや関係性は大きく違っており、昔は「もの」が少ない分、作品の中では、人間の本質的な部分や人間性というものに必然的に焦点が当てられているため、作品内容もより深遠であることが多いと思う。

先日、大学の学科のルクセンブルク出身の先生とご飯を食べに行っていろいろなことを話していた時に、先生が「日本の大学生は『大学=遊び』だと思ってる」と言っていた。ほんとにその通りだと思った。

日本では、一般的に、より良い大学(偏差値の高い大学)へ行けば、より良い企業に就職できると考えている人が多い。大学へ行くだけの学力がある人は、高校を卒業したら明確な理由がなくても大学へ進学しなければならないという義務的風潮が日本ではあると思う。その義務的風潮のせいで大学へ進学する多くの学生は勉強に対しての意欲関心が少ない。大学での専門が自分のやりたいことではないという学生もたくさんいると思う。ましてや、大学での専門が自分のやりたいことであるにも関わらず、進んで勉強しないという人すら多いように思える。いかに勉強せずに卒業するか、いかに楽して単位を取るか、そんなことばかり考えているように思える。単位が取れないと困るから、テスト前だけ勉強する。それではテストのためだけに勉強しているだけで、自分のために勉強していることにはならない。本当に自分のために勉強をしている学生というのは少ないように思える。テストがなければ勉強なんて一生しないというようにすら見える。彼らは大学が社会人になる前の唯一の自由に自分のやりたいことを勉強出来る最後の教育機関だと認識していないはずだ。大人(社会人)になってからは、もし自分が何かを勉強したいと思っても、自分の好きなように自由な時間は大学生ほど取れないし、学生よりは体力的にも脳科学的にも何かを習熟するだけの時間と労力を要するだろうから、思うように勉強出来ないと思う。そういう意味では、大学生というのは、何かを勉強するためのとても優れた環境にいることが出来る訳だから、その時間を無駄にするのは本当にもったいないことである。

アメリカでは、殆どの学生が大学へ進学するに当たって、明確な理由(自分がしたいこと、自分がするべきことなど)を持っている。そしてアメリカの大学は、卒業するのが大変だから、入学後も自分のやるべきことをしっかりと認識し、一生懸命勉強していると思う。そして余談ではあるがアメリカの大学の講義というものは、先生が話している時間が日本のそれと比べて圧倒的に短く、学生参加型の講義が多い。つまり、先生は着火剤であり、テーマや問題を学生たちに与えるだけに過ぎず、あとは学生たちが参加しながら授業を進める。このアメリカの講義スタイルもアメリカの学生がより意欲的に勉強する理由の一つだと思う。

一方、日本は比較的入学のが大変であるため、入学後は怠惰になる学生が多いと言っても過言ではない。また、大学へ進学するための明確な理由を認識していないのも、この現象を助長していると思う。

せっかく教育機関に所属していて、素晴らしい環境も整っているにも関わらず、勉強に意欲的でない学生たちを軽蔑するつもりはない。しかし、大学へ進学するだけの学力がある人は皆、明確な目的がなくてもより良い大学へ進学しなければならないというような義務的風潮は日本の学歴社会が背景となって生み出された産物であり、批判され、また、改善されなければならない。

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