″自然と人生は、
すでに完成された
システムである"
数万年前の自然と比べて、今の自然はもっと発展したのだろうか?
それとも変化したのだろうか?
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「自然と人生は、永遠に変わらず、変化し続けている。」
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変化すると断定的に言えば誤りである。変化しないと言うのも誤りである。
変わらない完成されたシステムの中で、同時に絶え間ない変化が起きている。
生命の生態系を抱く太陽系と地球を中心に見れば、
生態系を維持できるよう精密に組織されたシステムには何の変化もない。
太陽系の星々の距離が少しでも変われば、生態系は絶滅する。
太陽は変わらず燃え続け、光と熱エネルギーを送り続けている。
地球は変わらず自転と公転をしながら、
生物に1日24時間・1年365日という時間の概念を与えている。
原子の中の電子も変わらず自らスピンと回転を行い、
エネルギーとしての正体を保っている。
地球の生命生態系を維持するためには、
地球と適切な距離にある地球の盾・木星が、
地球に向かって飛来する惑星を防がなければならない。
月があってこそ、地球の自転軸は安定できる。
地球を包む鎧のような磁場が必要であり、オゾン層が必要であり、
水と大気の絶妙な組み合わせが少しも変わってはならない。
自然は変わらず回転と循環運動を行い、その中で同時に変化がある。
雪や雨が降り、大地を潤し、都市と生態系を潤し、下へ下へと流れて海に至る。
海から太陽熱によってきれいな水蒸気に変わり、空へ昇り、
再び雨となって降る循環は変わらない。
止まらない回転と循環運動は千年万年変わらないため、すでに完成されたシステムである。
あらゆる自然現象は必ず自然の法則に従う。
ゆえに自然のすべての現象は自ら当然である。
すべての自然現象には、必ず理由(自然法則)がある。
理解できない現象があるなら、それは私がまだその理由を知らないだけである。
自然の法則は一つしかなく、相手がないので比較できない絶対者である。
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自然は唯一であり、
自然を評価する存在は別におらず、
評価の対象でもない。
自然は、自ら当然である。
すでに完成された当然の自然システムの中で、
人生もすでに完成されたシステムである。
人間という生命体は、自然の生態系システムの中で生きている。
変わらず生老病死を行う。変わらず食べ、眠り、遊び、働きながら生きている。
変わらず1日は24時間で、1年は365日である。
幸福と不幸、愛と憎しみ、正義と不義、天使と悪魔、天国と地獄、真我とエゴ、
個人主義と共同体主義など、
人生の二元性システムも変わらない。
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二元性は相反相成である。
補完性である。
同時性である。
変わらないから、信頼できる普遍性である。
同時に変化があるから、退屈せず、調和している。
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システムが二元性だからこそ面白く、調和している。持続可能である。
全く変化のない退屈さは、人生において耐えがたい苦痛である。
ドラマや映画に、不幸がなく誰もがいつも幸せで、
悪がなく誰もがいつも善良で、憎しみがなく愛だけがあり、
病気がなくいつも健康であるなら、
そのドラマや映画はヒットするだろうか?
悪魔がそばにいない天使は天使ではない。
地獄がそばにいなければ天国も天国ではない。
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相反相成
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世の中のすべてのものは互いに反対だが、
互いの概念を引き立てる。
世の中には存在しないものはない。
役に立たないから捨てるべきものもない。
世の中は今のままで、すでに完成されたシステムである。
完成された自然システムの中に無限の選択の地平がある。
人間の選択によって人類の文明は変わる。
自然システムは科学が探求し、自然システムの中でどのような選択をして生きるかを
人生倫理学で学べばよい。
旧人類は哲学的に深く複雑に思考した。
新人類はスマートに科学的に思考し、倫理的に選択しながら生きる。
新人類の人生に哲学の居場所はない。
倫理は哲学的真理の問題ではなく、人生の選択の問題だからである。
天命であり必然的な自然システムと人生システムを理解し認めれば、
抵抗しなくなり、自由になれる。
抵抗すればストレスである。
抵抗せず理解し認めることが人生の解脱である。
システムを理解し認め、そして自分がやりたいように選択しながら生きる人生が、
賢く自由な人生の定石である。
理解せず、愚かで偏狭に、認めず、自分の基準を押し立て、
評価し干渉し抵抗し、ストレスを与え合えば、
それは愚かで自由でない人生である。
「理解・認定・自ら」生活瞑想が
人生瞑想の定石である。
心の勉強、心理相談、瞑想は人生の中で部分的な勉強である。
すべてはつながり融合して存在するため、
人生は全体的である。
部分的な心の勉強では、全体の人生を変えることはできない。
心を一時的に静かにしても、またはエゴを見つめ監視しても、エゴは消えない。
人生は基本的に生存本能と霊性本能という二つの本能で生きるシステムである。
生存本能と霊性本能をともに理解し認め、共に生きるしかない。
自然の法則に従う自然現象を当然として理解し認めれば、ゆったりと寛大になれる。
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すでに完成された
人生システムの中で、
ゆったりと寛大な人生こそが、
最も望ましい人生である。
それが瞑想の目的であり、
瞑想の完成である。
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その逆は、緊張し、冷たく、せわしく、神経質で、
自分しか知らない利己的で頑なな人の、愚かで自由でない人生である。
私の考えや感じは70億人の中の一つの考えにすぎない。
私の考えが世の中の標準や基準ではない。
私の選択は70億人類の中で唯一の私の選択にすぎない。
私の選択が共同体で共感され認められる選択となるためには、
私の利己心(生存本能)を良心(霊性本能)が常に省みながら生きなければならない。
瞑想を通して、これ以上自然を超える特別な能力を得ようとするのは愚かな試みである。
自然と人生は必ず自然の法則に従って変化する。
千年万年、自然の法則を超えて起こった自然現象はなかった。
仏も神も、そのような能力は持っていなかった。
理解することが知恵であり悟りである。
認めることが覚醒である。
愚かで抵抗する人生ではなく、
賢く自由な人生が人生の定石である。
金持ちであろうと貧しかろうと、
健康であろうと健康でなかろうと、
成功しようとしまいと、誰でもいつでも、
「理解・認定・自ら」生活瞑想を毎日行えば、
人生態度がゆったりと寛大になる。
ゆったりとは、緊張せず恐れない余裕ある心の状態である。
寛大とは、憎しみや嫌悪のない許す心である。
ゆったりと寛大な人生態度は私を平穏にする。
人生全体としてゆったりと寛大な態度になれば、
まさに瞑想の完成に至ったと言えるだろう。
この記事は、韓国新人類人生学校の代表チョン・デソン(全大成)さんが書いた
<人生の定石>という本の一部を要約したものです。
当ブログのすべての記事と挿絵の版権は弊社所有でございます。
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"ありがとうございます"









