アメブロに移ってから,まともに書くのは初のブログ.


最近,なんとも言えない感情や言葉が徐々に体にたまっている.

そんな気がするので久々にブログを書いている.


とはいえ,このブログを誰か読んでくれるのか?気になるところではある.



では本題.

「LOVE」と「LIKE」はどう違うのか.

元ネタは天声人語.テレビのCM.


天声人語の冒頭は以下のようである.

「LOVE」と「LIKE」はどう違うのか。何で読んだか思い出せないのだが、ある説明に関心して書き留めてたことがある。LOVEは異質なものを求め、LIKEは同質なものを求める心の作用なのだそうだ▼辞書的に正しいかどうかはおいて、なるほどと思わせる。言われてみれば「愛」には不安定な揺らぎがあり、「好き」にはどこか安定がある。その安定感は、自分と同じものを相手に見いだした心地良さかもしれない―。(以下を読みたい方は下記URLを参照してください:http://tenjin.asahi.com/images/cm/txt_cm01.png)



「愛」?は異質?「好き」?同質?を求める心の作用なのか?

「愛」は不安定で,「好き」は安定しているのか?


これは疑問だろう?


love like 違い でググると約501,000件hitする.

英語の動詞として,loveとlikeがどう違うのか?みたいな質問.

恋愛相談みたいもので,あの人のことが好きなのか?愛しているのか?わかりません みたいな質問.

心理学的に愛することと好きなことがどう違うのか?

私と同じく天声人語に“いちゃもん”をつけているブログなんていうのもhitする.



そう,結局何がしたいかというとこの記事,これを書いた記者が気に入らないのだ.




まず「好き」とはどういうことなのか?辞書の意味なんかは,私もどうでもいいので「好」という語の原義を調べてみたい.

「好」の会意。女+子.母親である女性が子を抱くさまから,好ましく,うつくしいの意味を表す.


また,“like”のもとを辿るとOld English lician“to please, be sufficient”そこからProto-Germanic *likjanが想定され,そこから祖語*lik- “body, form; like, same.”が想定される.


身体に関すること,似ていることなんかがこの言葉の原義になりそうだ.

そして何かが自分と似ていることは,確かに自分にとって“好ましい”ことになり,

今の“好き”という言葉になったのだろう.

確かに天声人語の言うように“like”は同質のものを求める傾向にある言葉のようである.



では「愛」は?

愛という字の解字を調べると,上の部分は頭をめぐらせふりかえる人,ふりむき見る心のさまから,いつくしむ意味となり,下の足の象形でいつくしむ心がおもむき及ぶという意味を表している。


愛は「いつくしみをおよばせること」.

漢字からはそうなるだろう.


“love”は?

古典英語ではlufuとなり当然loveという意味も有するがaffection, friendlinessなどとも同じ使われかたをする場合もある.

さらに印欧祖語まで遡ると *leubh-というかたちが推測され,その意味は"to care, desire, love"

ラテン語ではlubetとなり"pleases"などの意味も有するが,サンスクリット語では√lubh-で" to desire greatly or eagerly , long for"の意となる.


"love"のイメージはその根底に“(強い)願い”みたいなものがあるように思える.


確かに,「愛」は相手を一方的に思う感情であるから,不安定であるという要素を含んでいるかもしれない.しかし,そこには相手を慈しむ,願うことが根底にあるからこその不安定だろう.


「愛」は不安定かもしれないが“異質ではない”.


それだけは言える気がする.




もう長年,恋愛からも遠ざかって引き蘢りみたいな生活をしている奴がこんなことを言っても仕方ないかもしれないけれど...



次の更新はいつになるかわかりませんが,また読んでいただければ嬉しいです.


では.

考える。


結局それはその時,その時点のことでしかない。


自分がわかったつもりでいても,

実はそうではなかった。


なんてことはよくあることだ。


では,わかるとはどのようなことなのか?

"知"とはなんなのか?


印欧祖語では*gno-  ラテン語では(g)noscere 

ギリシア語ではgignoskein

サンスクリット語ではjñā- がそれにあたるものであり,この*gno-からgnosis(グノーシス)なんて言葉も派生している。


この*gno-の原意は何であるのか?

その語源を,簡単にではあるが,辞書などを使って調べてみる。


to know , have knowledge, perceive , apprehend , understand, experience , recognise


おおまかではあるが上記のような意味がその大半である。


つまり,何かを認識したり,感受した結果わかったことが"知"であり,"知る"ことなのであろう。


だとしたら以前,ここの日記で書いたことがあるが,

私の幼少期の交通事故の体験は,

何かを知ったことになるのだろうか?


確かにそのときの記憶は部分的にだが,

"極めて鮮明に"思い出すことが出来る。



家の近くで兄や幼馴染みと遊んでいる私。


何かに心を奪われて,彼等から目を離した私。


その後,兄や幼馴染みは道路の反対側に居て,

私は彼等を追掛けて,ふと道路に飛び出す。


そして,病院でひたすら泣いている私。

(幸い軽い傷だけでした。)


この記憶は極めて鮮明に思い出すことが出来る。



しかし その間の他の記憶はまったくないのである。



そして,その鮮明な部分をよくよく考えてみると,

この記憶断片は母や兄が私によく話していた部分とだけ一致しているのである。


そう,兄や母の話による伝聞を,いつの間にか自分の記憶として定着させた,

その可能性が一番高いのである。


つまり,実は自分の記憶だと思っているものでも,

曖昧なものだったりする可能性があるのだ。


はたして,それは何かを知ったことにはなるのだろうか?


自分で体験したこと,感じたこと,五感,

それは当たり前にあって,

確かなものだと,

いつの間にか思い込んでいる。


これこそが,やはり大きな誤謬であろう。


現実,今のすべて,見ているもの,聞いている音は,

本当にそこに存在している,あるのであろうか?


また,現実があるとして,

それをどうすれば証明できるのだろうか?


この議論は尽きない。


哲学的にも宗教的にも,このような問題はよく取り上げられる。

例えば仏教の唯識では,心によって世界が表されているとされ,

gnosisは宇宙の根源的なものと,

人間の本来的自己が同一であることを認識することで,

救済されるとしている。


どちらにも共通するのは人の感覚,感官は曖昧なもので,

それだけでは絶対的なものに辿り着くことは出来ないということである。


では何を知ればいいのか?


ニコラウス・クザーヌス (Nicolaus Cusanus)は,


"知ある無知" 


の重要性を述べている。


神に於いてはいかなる対立も一致していて,

無限の中では極大と極小が一致し,

神と被造物でさえも同じになるのである。


それは当然,認識,ratio(理性),

普通のものでは計り知れないものであり,

だからこそ


"知ある無知 なのである。


このように考えれば,神も宇宙をも自分のものとして知ることができる。つまり"知ある無知"によって人は神と同一のものになることが出来るのである。



次に,ソクラテスの有名な


"無知の知 がある。


ソクラテスには著作はなく,

この無知の知はプラトンの『ソクラテスの弁明』で述べられる。


「だれもソクラテスより知恵あるものはいない」というアポロンの神託があり,これを疑問に思ったソクラテスは世間で知ある者だと思われている政治家,詩人,職人のもとを訪れる。

しかし,ソクラテスは彼等と話,実はその三者に知がないことを知る。

そして,知識,知恵を完璧に知ることが出来ないと気付き,

自分こそが知者といわれる相手より優れていることがわかった。


その無知であることの自覚こそ


"無知の知 なのである。



疑問や問題はあっても,答えを出せることは極めて少ない。


知とは何なのか?結局はわからない。



こんなことを書いている私は,何を認識し,何を知っているのだろうか?

不安になるときがある。




ただ,語りえぬものを考え,その大切さを痛感したとき,


少しだけ,私は幸福を感じられる。



そんな気がする。




ヘーゲル『法哲学』序論

「哲学がその理論の灰色に灰色を重ねて描くとき、生の一つの姿は既に老いたものとなっているのであって、灰色に灰色ではその生の姿は若返らされはせず、ただ認識されるだけである。ミネルヴァの梟は黄昏とともに飛び立つ。」