縄文文明の芸術(1)縄文土器 「火焔土器は実は水紋土器であるという考察」
◉縄文土器 縄文土器研究で最も重要な地域は、関東・東北地方で、そこでは縄文早期から晩期まであらゆる時期の土器が発見されていることから、そこには一貫した文化を維持する共同体があったと理解できます。約16000年前の物となっている縄文土器の中でも特に着目すべきは、縄文時代中期の物とされている装飾土器(火焔型土器)です。 装飾土器は遺跡出土の土器全体の占める割合のうち5%以下です。縄文草創期の土器は胴長で、深鉢と呼ばれる深度鍋で、外側が煤で黒くなっており内部には焦げの跡がついていたりすることから、装飾土器以外は煮炊きに使われていたことが伺えます。形から推測しても煮込んだり茹でたりするのに適しています。それ以前は食べるものは焼いたり日干しするだけだったと考えられることから、これは料理史上、一大革命だったと食物史の専門家も述べています。 自然の恩恵を受けることで感謝の気持ちが強くなり、祈りの対象ともなります。装飾土器(火焔型土器)はまさにそのためで縄文中期なって祭祀用の役割を果たすようになったのも自然の成り行きと言ってもよいと思います。火焔型土器以外の土器とされる縄文土器(上写真)装飾土器(上写真)◉火焔型土器と水の関係 火焔型土器は信濃川流域で多く発見されておりそのほとんどが新潟県内、特に信濃川上・中流域に集中しています。このことから火焔型土器は、信濃川に土器作りのモチベーションが関係していて、「水の流れ」を意識していたとは考えられないでしょうか? 多くの火焔土器の文様を「火焔」と認識する原因は、炎のように上に突出している「鶏頭冠(けいとうかん)」と呼ばれる突起です。しかしこれは読んで字のごとく動物をデフォルメしたものだといわれ、形象学的には火焔の形とは思われません。 そこで「水の流れ」という観点で土器を見てみましょう。「鶏頭冠は」口縁部に4個向き合って大きく立ち上がるようにつけられ、いずれもまるで小さな波が立ち上がるように見えます。同じく口縁部にある「鋸歯状突起(きょしじょうとっき)」や頸部などに付けられる「トンボ眼鏡状突起」もそうした前提で見ると、さざ波のように見えますし、立ち上がる渦のように見えます。頸部や胴部上部が明らかに波を表しているとすれば、4つの鶏頭部はあたかもせり上がった波のように見えますし、その間の鋸歯状突起も、波頭が並んでいるように見えます。また、胴部下の「逆U字状文」と名付けられた縦の「隆線模様(りゅうせんもよう)」はあたかも垂直に落ちる滝のようにも見えてきます。 このように下写真を見ても分かる通り、この見事な水紋模様が水に対する自然崇拝を表しており、中には主として水を入れていたと考えられます。まるで人間に最も欠かすことのできない水を入れ、外部の縄文装飾をその結界(聖なる領域と俗なる領域の分け目)として示しているかのようです。(下写真参考) 日本の水流表現で有名なのは、絵師でいえば葛飾北斎です。特に「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」の大きな波の図は、世界中の人々が知っているあまりにも有名な絵画です。5000年前に同じ風土に住んでいた人々による水流の表現は、粘土紐で表現されていますが、観察眼は北斎と同じです。北斎のような、同じ日本の風土に生きた絵画の巨匠の水流の表現が間違っているとは思われませんよね。縄文土器にある、縦の波模様はあたかも北斎の「諸國瀧廻り」の瀧のように、垂直に落ちる水流を表しているように見えます。(下写真参考) なぜ人々は、水紋を表現したのでしょう。それは「人は水なしには生きられない」という人間の身体性から発し、水そのものへの信仰を形にすることに由来し、縄文がその土器の内なる自然信仰の対象を包むことによって、その内に水という神々が存在するというまるで、神社の正面を飾る「注連縄(しめなわ)」のような役割を演じたのではないかと田中先生はおっしゃっています。 このように水紋土器には、日常を超えた祭祀用の役割があったと考えられます。つまり、「火焔土器」は、祭事に水の神として祀られた「水紋土器」だったという考察です。参考文献「火焔土器は水紋土器である」「日本国史学」 著:田中英道