
今まで「原発反対」を言うと、一部の派の人と同じような目で見られて嫌な思いをしていた。
けれど、今の情勢は違う。
「脱原発」で、たくさんの人と話ができる。
私は、自分の父のことをよく話したり書いたりするが、父は「脱原発」にはまだなっていないようだ。
私が学生の頃からそうだった。
「地熱発電だって、地下を掘れば地中の重金属が出てきて土壌汚染が起きる」とか、「風力発電だって、体に有害な振動がでる」はては、「学生の頃は放射性物質をポケットに入れて歩いてたが、何ともない」…。
フザケてもらっては困る。
原発と言えば、ちゃんと精製した燃料で、ユックリと核反応を起こさせて、その熱で発電しているのだ。
つまり、これが何らかの理由によって急激に反応が進むと大量の熱と、それにより密閉していたはずの放射性物質が大量に吐き出されることになる。まぁ、小型原爆…かな?
一度重大事故が起きれば、土壌汚染がどうのとか言っているのとは桁違いな程の汚染物質が撒き散らされる。
大体、核燃料にしたって、キユリー夫妻が何トンかのウラン原石を、スッゴク頑張って精製したものが、ほんのシミほどのウランしか採れなかったものを、現在では、自然界に散らばっていたものを大量に集め、それでいて廃棄する時は散々バラバラにできないから「固めて埋める」って、何なんだと。
安全に廃棄する決定的な方法がない技術は、未完成な物だと言いたい。
放射能と放射性物質は違う。放射能は瞬間的な線量かもしれないけれど、放射性物質は半減期を重ねて他の元素にならない限り放射能を出し続ける。
自然界では、それが、人体に問題にならない程度に散らばって存在している。
「ベネチアングラス、ベネチアンブルーの色は、昔は放射性物質からつけていたらしいが、放射能が人体に影響するらしいとわかってからは他のもので代用した」と、子供の頃教えてくれたのは、他ならぬ父である。
チョビッと放射性物質を持ち歩き、チョビッと放射能を浴びただけのことで、「安全」と言えない。「これは人間がどれ程浴びればどれ程影響するかを人体実験することのできない、危険な技術なんだ」と、私は言う。
もっとも戦争末期、原爆投下後の広島を歩いて通過した父は、チョビッとと言えるかどうか…。
広島のABCC(アメリカの放射能研究所)では統計をとっていたし、原爆投下時に測定器も一緒に投下して、それも統計をとったようだし、ある程度の数字は出ているのかもしれないけど、それでも「絶対に人体に影響しない」と言い切れるのは、自然界に存在する程度なのではないだろうか?
ある程度話が進むと、父は口をつぐむ。
しかし、やはり心の中は変わらず「原発は必要」だと思っているのだ。
今は別府の杉の井ホテルでは、自噴する温泉の湯で、電気(イルミネーション含み)は自給自足している。
竹田は、農業用水の用水路で小規模な水力発電を行っている。
ハウス位の電気なら、風力発電で補っているところもあれば、色々な方法がある。
木や竹も、寿命が尽きて朽ちれば、自然と二酸化炭素を出す。
それならば、風倒木や山林の不要な竹等を使って、冬なら暖房に使えば節電にもなる。
何も我慢しなくても、それなら簡単にできる。
我が家も実家も太陽光発電してるのだから、いい加減「原発はいらない」と認めてもよいではないか。
自分の過去の研究と夢は、…。そう簡単には捨てられないのだろう。
それこそ私の大好きだった『サイボーグ009』や、『鉄腕アトム』でも、原子力は夢のエネルギーだったんだから…。
けれど、今の情勢は違う。
「脱原発」で、たくさんの人と話ができる。
私は、自分の父のことをよく話したり書いたりするが、父は「脱原発」にはまだなっていないようだ。
私が学生の頃からそうだった。
「地熱発電だって、地下を掘れば地中の重金属が出てきて土壌汚染が起きる」とか、「風力発電だって、体に有害な振動がでる」はては、「学生の頃は放射性物質をポケットに入れて歩いてたが、何ともない」…。
フザケてもらっては困る。
原発と言えば、ちゃんと精製した燃料で、ユックリと核反応を起こさせて、その熱で発電しているのだ。
つまり、これが何らかの理由によって急激に反応が進むと大量の熱と、それにより密閉していたはずの放射性物質が大量に吐き出されることになる。まぁ、小型原爆…かな?
一度重大事故が起きれば、土壌汚染がどうのとか言っているのとは桁違いな程の汚染物質が撒き散らされる。
大体、核燃料にしたって、キユリー夫妻が何トンかのウラン原石を、スッゴク頑張って精製したものが、ほんのシミほどのウランしか採れなかったものを、現在では、自然界に散らばっていたものを大量に集め、それでいて廃棄する時は散々バラバラにできないから「固めて埋める」って、何なんだと。
安全に廃棄する決定的な方法がない技術は、未完成な物だと言いたい。
放射能と放射性物質は違う。放射能は瞬間的な線量かもしれないけれど、放射性物質は半減期を重ねて他の元素にならない限り放射能を出し続ける。
自然界では、それが、人体に問題にならない程度に散らばって存在している。
「ベネチアングラス、ベネチアンブルーの色は、昔は放射性物質からつけていたらしいが、放射能が人体に影響するらしいとわかってからは他のもので代用した」と、子供の頃教えてくれたのは、他ならぬ父である。
チョビッと放射性物質を持ち歩き、チョビッと放射能を浴びただけのことで、「安全」と言えない。「これは人間がどれ程浴びればどれ程影響するかを人体実験することのできない、危険な技術なんだ」と、私は言う。
もっとも戦争末期、原爆投下後の広島を歩いて通過した父は、チョビッとと言えるかどうか…。
広島のABCC(アメリカの放射能研究所)では統計をとっていたし、原爆投下時に測定器も一緒に投下して、それも統計をとったようだし、ある程度の数字は出ているのかもしれないけど、それでも「絶対に人体に影響しない」と言い切れるのは、自然界に存在する程度なのではないだろうか?
ある程度話が進むと、父は口をつぐむ。
しかし、やはり心の中は変わらず「原発は必要」だと思っているのだ。
今は別府の杉の井ホテルでは、自噴する温泉の湯で、電気(イルミネーション含み)は自給自足している。
竹田は、農業用水の用水路で小規模な水力発電を行っている。
ハウス位の電気なら、風力発電で補っているところもあれば、色々な方法がある。
木や竹も、寿命が尽きて朽ちれば、自然と二酸化炭素を出す。
それならば、風倒木や山林の不要な竹等を使って、冬なら暖房に使えば節電にもなる。
何も我慢しなくても、それなら簡単にできる。
我が家も実家も太陽光発電してるのだから、いい加減「原発はいらない」と認めてもよいではないか。
自分の過去の研究と夢は、…。そう簡単には捨てられないのだろう。
それこそ私の大好きだった『サイボーグ009』や、『鉄腕アトム』でも、原子力は夢のエネルギーだったんだから…。

