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皆さんこんにちは
先日、英単語テストを間近に控えた息子から
「確実に覚える方法を教えて」と懇願され
「書いて書いて書きまくるしかない」
と答えたところ
「大人がガキ守らなくてどうすんだよ…」
と、声変わりしてない声で言われました
(しかも若干の余韻あり)
…その使い方合ってるのか?
ちなみにどこ出典?
どうやら今夢中になっているアニメ
「推しの子」で人気のキャラクター「アクア」が言った神セリフらしいです
以前ひろゆきが元ネタの発言もあったし
(それ、あなたの感想ですよね?)
これからもまだまだ驚かされそうです
「邸宅の記憶」2023年建物公開 旧朝香宮邸

前編はこちら


長女・紀久子女王は
既にご結婚で家を出ていました
紀久子女王
(画像転用元:Wikipedia)
嫁ぎ先は鍋島侯爵家
次女・湛子女王(きよこじょおう)は当時15歳
まるで外国のようなお屋敷での生活を楽しまれたことでしょう
湛子女王(きよこじょおう)
(画像転用元:Wikipedia)
姫宮方のお部屋前には通称「こんぺいとう」と呼ばれる星型ランプ
冬季の閉館前の時間がオススメだそうです
キラキラした照明で湛子女王も心ときめいたでしょうね
姫宮のお部屋
飾られている写真は紀久子女王?湛子女王?
家具は引き戸で和風になっています
姫宮寝室
小ぢんまりとしたお部屋ですが
天井が高く窓が大きく取られているので狭くは感じません
来訪者がわかる大きな窓辺を持つ若宮のお部屋
ちょうど玄関の真上になります
長男・孚彦王(たかひこおう)
(画像転用元:Wikipedia)
皇族として初めて飛行機の操縦桿を握った孚彦王
戦後は東京大学で航空工学を学び
日本航空へ就職されました
ラジエーターカバーは…
魚若宮は釣り好きだったのでしょうか
若宮のどちらかはわかりませんが
玄関のラリック作の女神のレリーフに酔ってヒビを入れた逸話が残っています
激怒した鳩彦王がそれ以後この扉を使うことを禁止したそうです
朝香宮鳩彦王殿下の書斎
当時宮家のお屋敷は
来客などが訪れる公的部分は洋館
反対にプライベート部分は日本家屋なのが一般的でしたが
朝香宮邸は装飾の一部分に和風を取り入れている以外は、完全に公私ともに洋館でした
最先端のアール・デコ建築を拝見しに
完成後は多くの来客があったのではないでしょうか
3年間のパリ生活は
帰国後の夫妻の生活にも影響を与え
「朝香宮がとても西洋くさくなったことなど話題にのぼる」と
当時の高松宮殿下の日記に書かれるほどでした
後年、湛子女王は回想で
両親からたびたびフランス語で会話を求められて大変だったと述べています
わ〜それは苦痛そう
ノンノン
邸内には、允子妃のお子さま達への愛情を感じられる品も展示されていました
ちょっと暗くて見えづらいかもしれませんが
允子妃がパリから湛子女王に送った絵葉書の数々です
一番下の絵葉書の裏には
これからスイスへ旅行へ行くことなどが書かれています
允子妃は朝香宮鳩彦王を「おもうさま」と呼んでいました
その左はベネツィアのホテルの絵葉書
矢印で泊まったお部屋を指し示しているのが微笑ましい
凛々しいワンちゃんの絵葉書には
「キヨコさんは犬はお嫌いですか?
絵なら怖くはないでしょう」と書かれています
このようにパリ滞在中に欧州を周遊された夫妻は
行く先々でまだ見ぬ外国の珍しさを絵葉書でお子さま達へ伝えていたのですね
たとえばこのペンギンの置き物
デンマークを代表する陶器メーカー・ロイヤルコペンハーゲン製
実はこのペンギンたち、長年行方不明になっていましたが
2010年に発見され、お屋敷にまた戻ってきました
夫妻がデンマークを旅行で訪れた際に購入した可能性が高く、鳩彦王のお気に入りだったそうです
当時はなんと「ペリカン」と認識されていたペンギンたち
ペンギンの認知度が低かった時代ならではのエピソードですね
理想のお屋敷完成後に起きた悲しい出来事
ここからはちょっと悲しいお話になります
1933年5月に完成したアール・デコ建築の傑作・朝香宮邸
同年10月、允子妃がご体調を崩されます
かつてピアノが置いてあった大きな共有スペース
慢性腎臓病と診断を受け
一時的に快方に向かいますが
3階には日差しを楽しむ温室・ウィンターガーデン
10月30日には再び悪化し
翌月3日に朝香宮邸内にて薨去…
まだ42歳でした
※薨去(こうきょ)…皇族、三位以上の身分の方が亡くなること
今も色褪せないデザインの家具は
鳩彦王自ら松坂屋で購入したドイツのマルカル・ロイヤーのもの
夫妻専用のバスルーム
允子妃が心血を注いだ、パリ文化を象徴する理想の邸宅が完成してわずか半年後の出来事
もっともっとお気に入りの物に囲まれて過ごしたかったはずです
この時次女・湛子女王は15歳の女学生
若き年齢で朝香宮家の女主人として
父を補佐することになりました
夏の日差しを避け、家族で涼んだ「北の間」
ご結婚とボンボニエールの思い出
母・允子妃の死から8年後の昭和16年
湛子女王は大給(おぎゅう)家へ嫁ぎます
婚礼の当日
母が愛したお屋敷の本階段を
侍女たちの手を借りながら降りてくる
おすべらかし姿の湛子女王の姿が
貴重な16ミリフィルムに残されています
大給義龍伯爵と湛子女王
允子妃もきっと娘の婚礼を喜びながら
見守っておられたでしょうね
しかし結婚から3年後…
またもや悲しい出来事が起こってしまいます
兄・正彦王がマーシャル諸島のクェゼリン島にて戦死
正彦王(結婚後は皇籍を離れ音羽侯爵となる)
(画像転用元:Wikipedia)
父・鳩彦王は軍人として多忙の身
湛子女王にとって、結婚後も時々立ち寄ってくれる兄・正彦王の存在は大きなものでした
湛子女王の悲しみは想像に難くありません
思い出の家族写真
(画像転用元:東京都庭園美術館HP)
日々悪化する戦況
戦時中は空襲による被害が予想されましたが
このお屋敷を守ろうと陸海空から小隊が派遣され、戦火を免れることが出来ました
戦後はGHQの接収の危機を乗り越え
吉田茂首相公邸(昭和23〜29年)
白金迎賓館(昭和30〜49年)
白金プリンス迎賓館(昭和50〜56年)
と名前を変えつつも保存されてきた朝香宮邸は
昭和58年に現在の東京都庭園美術館としてオープンします
本館から展示のある新館へ
現在朝香宮家にまつわる縁の品が公開されています
これすべてボンボニエール
ボンボニエール(Bonbonnière:フランス語)とは
ボンボン(砂糖菓子)を入れる菓子器のことで
日本では皇室のお祝い事に贈られる品
すべて手のひらに乗るサイズで
技巧を凝らした繊細なボンボニエール
そのデザインはユニーク
こちらは今上天皇の成年のお祝いのもの
笙入れ物にはならない気がするけど、開くのかしら…
こちらは昭和天皇ご成婚記念のもの
古い時代のものまできちんと保存されているんですね
こちらはもっと古い明治天皇の銀婚式祝典の晩餐会で出されたもの
日本で初めてオリジナルで発注されたボンボニエールなんだそう
実はボンボニエールの作り手の多くは
明治9年の廃刀令で職を失った刀職人たち
ボンボニエールが芸術品なのは彼らの見事な技術が活かされているからなんです
朝香宮家の紋入りの湛子女王のボンボニエールもあります
湛子女王は令和元年に99歳で亡くなられています(明治天皇の孫世代で最も長生きされた)
生前、長男の大給乗龍氏は
このボンボニエールにまつわる話を
母である湛子女王からよく聞かされたそうです
姉・紀久子女王のご結婚のボンボニエールは銀で出来た見事な品だったけれど
自分の時は戦時中ということもあって目立たない木製になった…と
ちなみにこちらが紀久子女王のご成婚時のボンボニエール
華美な物が制限されていた当時
庶民だけでなく例外なく皇族にも求められていたんですね
でも本人からしたら
お姉ちゃんの時は派手婚だったのにぃ
という気持ちにもなりますよね
(庶民風に脚色しました)
娘が嫁いだ後1人になった鳩彦王
戦後は皇籍を離れ熱海へ
晩年は趣味のゴルフと家庭菜園を楽しまれ
悠々自適に暮らされたそうです
かつて邸にお仕えしていた女性の話によると
妻に先立たれた鳩彦王はそれ以来毎朝
允子妃の部屋に飾ってあった妃の肖像画に
お辞儀をしてから階下へ降りていたと…
日本屈指のアール・デコ建築のお屋敷には
家族の想いが詰まった物語がありました
朝香宮邸として存在した14年間の歴史を
今まさに私達も東京都庭園美術館で感じ取ることが出来るのです
建物公開は6月4日まで
お近くの方もそうでない方も
是非この機会に訪れてみてください
最後までご覧いただきありがとうございました
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