ゴールデンウィークに、青森の実家に行ってきました。
2月に行ったときは雪どっさりでしたが、今回は桜のピークも過ぎ、気持ち良い季節。
息子の従妹たちは来られなかったので、子供はヒノデさん一人でしたが、楽しめたみたいです。
実家から車で30分もかからないところへ、バーベキューに行ったときの写真です。
岩木山がすごく綺麗でした。
わかりにくいですが、白い花をつけたリンゴ畑の向こうに、岩木山が見えてます。
それともう一つ。
今度は別の日、家のある通りから見える岩木山。
雲の形が面白かったので、思わずパチリ。
なに?この、イルカとヘビが合体したみたいな形…と。
この日は、津軽から八戸方面に行ったのですが、その途中、鶴田町にある「鶴の舞橋」を見てきました。
そこでは太陽の周りに虹の輪っかが出来てて、ここでもまた嬉しくなってパチリ。
さて。この後は、みちのく有料道路を通って、東北町~七戸町へ行きました。
夫の方の親戚のお墓参りも兼ねて、青森に行くときはかなりの頻度で立ち寄ってる場所です。
結婚して一か月経つか経たないかの頃、葬儀で1週間ほど滞在したことがあります。
そのとき以来、なぜか、ものすごく気になる土地なのです。
同じ青森県内でも、私の実家とは、全く縁のない土地なんですけどね。
神社などに興味を持ち始めてから、なぜか自分が生まれた大阪のことを調べるより先に、この地区の神社を調べたりして、とにかく気になってたのです。
調べていて、「行ってみたいな~」と思った場所でしたが、今回ようやく行けました。
行ってみたかった場所のひとつ、「つぼのいしぶみ保存館」。
「つぼのいしぶみ」の保存と、それにまつわる資料の展示をしているところです。
つぼのいしぶみ、なんじゃそれ、という感じかと思いますが、この石↙です。
写真だと、何が書いてあるかわかりませんが、「日本中央」と刻まれています。
9世紀初頭、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷征討でこの地までやってきたとき、矢尻で刻んだ、とされています。
しかーし!
坂上田村麻呂は岩手県の水沢あたりまでしか来てないはずなので、これは違う、という話も。
田村麻呂の後に将軍になったのが、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)という人で、この人が811年にこの地域まで来たのは確かなようです。なので、この石に文字を刻んだのは、綿麻呂さんの方だったのかも…そのような説もあるそうです。
田村麻呂さんの方が何かと有名なので、田村麻呂さん作ということになっちゃった、とか。普通にあり得そうな気がします。
青森に坂上田村麻呂は来てないはずなのに、田村麻呂創建の神社があるし、ねぶた祭りなんか、田村麻呂は人気のテーマですから。
ちなみに、私が住んでるところの近所、宮城県の多賀城市にも「つぼの碑(いしぶみ)」と言われているものがあります。
坂上田村麻呂というなら、多賀城の碑の方が本物っぽいですが、個人的には、なんとなく、青森の碑の方じゃないかという気がします。
多賀城で見つかった碑が「つぼの碑」と言われるようになったのは、伊達藩の4代藩主綱村公の時代だそう。で、その時期、伊達藩では藩史の編纂を行ったり、寺社の造営を積極的に行うなど、文化的な事業に力を入れていだそうで、藩内の歌枕に関する土地の調査などもしてたんだとか…。
歌枕とは、和歌の中に出てくる名所のことで、百人一首でも出てくる「逢坂(相坂)」とか、地元宮城だと「末の松山」などは、聞いたことがあるのではないかと思います。
その、歌枕。実際どの場所かというのは諸説あることが多いみたいで、「末の松山」にしても宮城県多賀城説と、岩手県北説があるらしいです。
そんなこんなで、有名な歌枕の由来が、自分の地域にあるというのはやっぱり誇らしいというか、宣伝にもなるしということで、伊達藩の調査でも、信憑性の低いものまで含めて「これ全部、我が藩の歌枕一覧です!」みたいにまとめちゃった可能性も否定できないのではないか、と。
実際のところは、わかりませんが。
ただ、東北町のつぼのいしぶみは、田村麻呂が彫ったものかどうかは怪しいにしても、位置的には、こちらの方がしっくりくると思ったのです。
まず、歌枕として、「つぼのいしぶみ」が使われる場合、「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」ということをテーマにしているものが多いということ。
「どこにあるかわからない」ほど遠くの場所を指すのに、多賀城は中央の人たちにとっても、わりとメジャーだったんじゃないかと思ってしまいます。
12世紀に歌学者の顕昭という人が「つぼのいしぶみ」の解説をしているのですが、そこでもこのように書かれています。
いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り。
日本のはてと云り。
但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付だれば石文と云り。
日本のはて…ですからねえ。
多賀城よりはやっぱり、東北町の方が…と思うのです。
そして、東北町のつぼの石文が発見された場所というのが、「坪」と「石文」という地名が隣接している場所であること、さらにこの辺りは、古代には「都母(つも)」と呼ばれていたことも関係ありそうな気がします。(つも→つぼ)
また、「日の本(ひのもと)将軍」という言葉があります。
津軽の豪族、安東氏がそのような号を与えられたという言い伝えがあるそうです。
ひのもと、日ノ本(日本)、日下というのは、本来蝦夷地として認識されていた、とも…。
古代の日本は、大和政権によって統一されてから「ヤマト」と称していたようですが、その後いつ頃から国号として「日本」を使うようになったのか、はっきりしていないようです。
藤原顕昭が、つぼのいしぶみのある場所を「日本のはて」と言っていたのは、「日本国(朝廷)の果て」という意味なのか、「日ノ本(日本)=蝦夷地」の果て、という意味だったのか…。
「日本のはて」にあるんだけど、石に刻んだのは「日本中央」なんですよね。
ちなみに、この「つぼのいしぶみ」の真偽については、いまだに結論が出てないようです。
平安時代とは断定できないものの、書体や文字の磨滅の具合からとても古いもの(室町~江戸初期と、人によって意見様々ですが)というのは一致しています。
個人的にはなんとなく、平安時代の初代「つぼのいしぶみ」が壊れるとか紛失するかして、伝説をもとに二代目が作られたのが、今展示されてる↑のいしぶみではないか…と言う説が有力なような。
「つぼのいしぶみ」に関して、最後にひとつ、意外な発見がありました。
「つぼのいしぶみ」が歌枕として、和歌に詠まれていたことを書きましたが、つぼのいしぶみを読んだ歌人には、源頼朝や西行法師などがいます。
記念館の入り口に置いてあったリーフレット類の中にあったコピー文書が目にとまり、手にとって見ると、そこには「和泉式部」の文字が。
石碑にちなんだ代表的な歌を紹介しているのですが、その中の一つに、和泉式部の歌があったんです。
和泉式部といえば、百人一首の歌
あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
が有名ですが、
請いかば 遠からめやは 陸奥の 心つくしの つぼのいしぶみ
という歌も残してたんですね…。現代語訳できないけど。
私は、子供の頃買ってもらった百人一首の札の中で、和泉式部の札が一番のお気に入りだったのです。
小学校低学年のとき、頼んだおぼえもないのに我が家にやってきた百人一首。
歌の意味はわからないながら、絵面を見てるうちに、気づいたら飯泉式部の絵柄がお気に入りになってました。
多分、顔がキレイだった(といっても、どれも大差ない)のと、何といっても着物の色です。
私が青緑色が好きだと自覚したのは、この札がきっかけだったかもしれません。
あれ。
全然関係ない話になってましたが…。
とにかく、何となく気になって行ってみた「つぼのいしぶみ」保存館に行ってみたら、やっぱり何となく気になっている和泉式部の和歌が出てきて、なんだか嬉しくなってしまった…というお話でした。
この他、つぼのいしぶみ保存館のあとに行った神社のことなど書いておきたいのですが、長くなったので、次の記事で…。