“がんばれば、いいことがある。努力は必ず報われる。
そう信じていられるこどもは幸せなんだと、いま気づいた。”
私は、幸せなこどもだったんだと思う。
決して優秀な子供じゃなかった。1歳半年下の妹には、何一つ勝てるものがなかった。
算数なんて小学4年生の頃にはつまづいてた。
かけっこはいつもびりだった。
強いて言うなら、私には努力する才能があった。
最近になって、お父さんや叔父さんが、
“努力できるのも才能”みたいなことをよく口にするようになった。
それはたぶん、上3人が、高校に入学し、卒業し、なんていうか、
“結果が出た”のを見て、感じたことなんだろうなって思う。
がんばるのは、好きだった。
なんでかわからない。
いやたぶん、あの頃の自分に、たぶんそんな意識はない、けど、
自分を磨くのが好きだった、んだと思う。
たぶん、なんていうかそれは、なんでも知りたい子供、子供の好奇心、
そんなものから来てた気がする。
別に何か、明確な結果、勝つとか、合格とか、が出てたわけじゃなかった。
ただ、何かを知りたい、わかるようになりたい、できるようになりたい、
きっとそうだったんだと思う。
そして私は、いつの間にか、結果を得てた。
いいことがある、報われる、
いつの間にか、それが当たり前になってた。
それを自分で証明してきた気になってた。
通知表に“がんばろう”がついてたのが、初めて“よくできる”になった。
後ろから数えて何番の持久走大会で、7位に入賞した。
ユニホームをもらうのが一番遅かった3年生が、試合を決める3ベースヒットを打った。
陸上部のコを抜き、3年間駅伝をやり抜いた親友と共に、1、2位フィニュッシュを飾った。
がんばるのは、好きだった。
いつの間にか、ありきたりな理由がついてた。
“がんばったら得られる結果は、他の何物にも代えがたい、特別な喜びを与えてくれるから。”
がんばったら、いいことがある。努力は必ず報われる。
いつの間にかそれが、私の信念みたいになってた。
それが私を支えるようになってた。
私は幸せな子供だったんだ。
全部が壊れるようなできごとだった。
がんばったら、死ぬほど傷つくことを知った。
がんばったら、何もかも失うことを知った。
夢を失った。目標を失った。
居場所を失った。仲間を失った。―いや、そんなものは最初からなかったと確認させられた。
生まれて初めて、心の底から、
頑張っても意味ない
と思った。
必死にごまかそうとした。言い聞かせようとした。わからせようとした。
綺麗事を並べてみた。
聞きわけのいい大人になろうとした。
百歩譲って、このできごとの意味は見出せる。
でも、頑張った意味は見出せなかった。
つまらない大人になった。
がんばってもいみないじゃん―
自分に聞かれて、自分で答えられなくなってた。
自分を納得させられなくなってた。
頑張っても、もう全国に行くことはない。優勝することはない。
個人タイトルを獲得することもない。
“仲間”と一緒に喜ぶことはない。帰る場所はない。
…なんてつまらない言い訳をしているんだろう。
確かに、選んだ時と状況は変わった。
もっと厳しい状況だったことがわかった。
思ってたことが実現できないことがわかった。
更に失ってたことに後から気づいた。
だけど、それでも私の決断は変わらなかったはずだ。
違う場所で続けることを選んだはずだ。
“「三年生になっても球拾いかもしれないぞ。そんなのでいいのか?」
「いいよ。だって、ぼく、野球好きだもん」”
“拍子抜けするほどかんたんな、理屈にもならない、忘れかけていた言葉を、ひさしぶりに耳にした。”
私は幸せなこどもだ。