最近英語に触れる機会が多くなって、自然と英語の勉強にかける時間が増えてきている。
勉強すればするほど、英語で書かれた教材を解いている時と日本語で書かれた教材を解いている時で
解いている感覚が違うことに違和感を抱くようになった。

そこで、少し考えてみた。
この違和感の正体は一体なんなのか?

結論から行くと、英語で書かれた教材(つまり、ネイティブ用の教科書。grammar in useとかね)は、

「こんなことを伝えたい時には、こう言う(or こう書く)んだよ。」

という形で書かれているのに対し、
日本語で書かれた教材は

「こう書かれていたら、こう読む(聞き取って解釈する)んだよ。」

というスタイルになっているということだ。


つまり、ほとんどの日本語で書かれた英語本はネイティブ用の教科書にくらべて非常に受身なのだ。

(発信型英語などということをうたうものも多いが、あくまでそのポジションは最上級だ。まず読み取り、聞き取り、解釈ができるようになった人の最上級の課題として発信することが出てくるに過ぎない。)


このことの一因は、日本人の英語圏に対するイメージから出来上がっているように思う。
すなわち、

「なにか言われたらどうにか対応しなければいけないが、
こちらからわざわざ近寄って行きたくはないもの」

というイメージだ。

たとえば、街を歩いていて英語圏の人に話しかけられたらどうにか対応しなければならない。だが、こちらから話しかけることはまずない。それが日本における現状だと思う。
ビジネスなどで否応なしに話さなければならない、とか海外に向けて商品・サービスを売りたいということでなければなかなか発信する必要性は生まれない。



だが、もっと重要なことがある。
根本には日本人独特の「すみません」の精神性があるように思われるのだ。

まず、「すみません」の精神について詳しく見ていこう。

たとえば、人になにか手助けしてもらったら「すみません」というのは日本人にとってはごく自然だ。
だが、アメリカ人ならばそこはサンキューとなる。
「すみません」と謝るのは意味が分からないらしい。
絶対にそのシチュエーションでアイムソーリーとは言わないそうだ。

そこに見えるのは日本人の異常な基準の高さである。
あらゆることを、独力で、人に頼らずに行うのが基本であり、人に助けてもらうのは
自分が不甲斐ない証拠だと考える。

極端な言い方をすれば、日本人の基準では神様かスーパーマンでもない限り
ことあるごとに「すみません」と謝らなければならないことになる。

この異常な基準の高さこそが「すみません」の精神性である。


この基準が英語に関しても適用されている。
英語で話しかけられたとき平然と英語で返すのが当然であり、それができなければ「すみません」なのだ。

一般化すると、何がしかで英語力を要求されたときにそれに応えられるだけの英語力を持つこと。
それが日本人の英語学習である。


しかし、果たして要求に応えることはそこまで大事なことだろうか?
自分からは要求せず、相手からの要求に答えることには必死になる。
それではまるで奴隷ではないか?

だから、本能的に英語が嫌になるのだ。
頭では英語が大事だと思っていても、本能的には馬鹿らしくなる。
本能は人の言う事を聞くよりも人に言うことを聞かせることのほうが好きなはずだ。


より注目すべきは英語力がないことによるデメリットよりも、
英語力があることによるメリットのほうだ。

良く考えてみてほしい。
たとえば、外国人に話しかけられたときに不自由なく応えられるスキルを身につけるのは非常に難しい。なぜなら、何を聞かれるかわからないからだ。

それに対して、自分が話しかける立場ならば比較するとずっと楽だ。
映画の話について聞けば映画の話が返ってくるし、ポーカーについて聞けばポーカーの話が返ってくる。自分が質問した分野についての限定的な英語力さえあれば十分なのだ。

自分は昔経済学を勉強していた。1冊目の英語で書かれた教科書を読むのは非常に苦労したが、2冊目以降はスラスラ読めた。その分野で使われる単語や言い回しを覚えてしまったからだ。

しかし、大学の教科書が読めるのに、ハリーポッターは読めなかった。自分の英語力は経済学の分野に特化していたからだ。

これをネガティブに捉えるのはいかにも日本人的だ。
重要なのはハリーポッターが読めなくたって大学の教科書は読めるということだ。

英語圏の大学生レベルの英語力を身につけるのは非常に難しいかもしれないが、われわれにそんな必要はない。知りたいことが分かり、話し合えれば十分なのだ。


英語について我々が考えを改めるべきなのは、要求に答えるための学習、すなわち広い分野における英語力を身につけることよりも、自分が要求するための学習、すなわち自分の興味関心のある分野における深い英語力を身につけることなのだ。

そもそも日本人だってたとえば文藝春秋やAERAのような一般誌の内容を全般的に理解できる人なんてほとんどいない。新聞を隅から隅まで理解できる人なんて会ったことがない。どうして英語でそれが出来る必要があろうか。

結局のところ、そのくくりは教材を作る側の都合でしか無い。
ビジネス英語の本ならそれなりの数が売れるかもしれないが、たとえば金属加工の英語や、受託契約の英語などのくくりで本を作ったところで部数が出るわけがない。だからと言ってビジネス英語の本の該当項目の英語だけ覚えても全然足りない。そんな深いところまで掲載していては分厚くなりすぎる。
そういう教材製作者の都合に合わせて学習しても実用性は皆無なのだ。

それに比べると、TOEIC対策の本は作り易い。語彙が限定されていて、同じ目的があるからだ。
英語の本なんてほとんどがTOEIC対策か、受験対策の本だろう。あとは英会話の文例集だ。

もちろんTOEICの資格としての実用性は認める。
ある程度英語が得意な人ならばとっておかないと損と言っていいレベルだと思う。
自分も最近そう感じて受験しようと考えている。

ただ資格そのものを抜きにして、その英語力で何が出来るかというと疑問だ。
たとえばTOEIC900ならば、英語でWEBサイトやYOUTUBEをたのしむことが出来たり、本を読んだりするようなことはできると思う。

それ自体は決して悪くないが、同じ時間だけ勉強すれば海外からほしいブランドものを安く買い付けたり、ebayで物を売り買いしたり、海外のブログ上のコメントでディスカッションするくらいは簡単なのではないかと思う。海外で生活することだって可能だろう。べつにTIMEやNEWSWEEKを読める必要はない。日本で文藝春秋を読んでいる外国人を見たって気味が悪いだけなのと同じことだ。

もちろん私の発想はあまりに貧困だと思う。もっと英語ができることによるメリットは大量にあるはずなのだ。まだまだ情報が足りない。


そろそろまとめよう。私が言いたいのは

・発信型の英語は重要だが、それはもっと早い段階で学ぶべきだ。

・現時点では洋書の教科書を利用するほうが発信メインで英語を習得することができる。

・日本でももっと実用の英語を重視するべきだし、それはいわゆる実用的な(?)語彙や言い回しを学ぶことではなく、限定的な分野での発信可能な英語力をつけるのが大事だと思う。(ちなみに私としては、海外の掲示板やブログで特定の分野の話題をディスカッションできる程度であればいいと思う。)

・TOEICはなんだかんだ言って資格として有用だと思う。

・英語力は要求に答えるためではなく、要求するためのもの。

・「すみません」の精神なんて人生をネガティブにするだけだから捨てちまえ!どうせ神様にはなれないんだから。

ということでした。

うん。たくさんの論点をひとつの文章で言おうとするととても読みにくくなる、という見本のような文章でした。ブログだからいいや。




ワークライフバランスと言う言葉は一時的に流行し、今は少し批判的に捉えられることも多くなった気がする。

流行ったのはよくわかる。みんな働きすぎて疲れているからだ。
批判が起こったのはよくわかる。ワークライフバランスを取るためにはこんなことをした方がいいと書かれているのを読んでなんとなくうんざりしたからだ。

根本的な認識の誤りがある。

ワークライフバランスという言葉において
「ワーク」というのは、お金を稼ぐための仕事のことだ。
「ライフ」というのは、お金を稼ぐため以外の仕事のことだ。

だから、ワークとライフのバランスをいくら調整したところで、仕事の量はさっぱり変わらない。
ワーク重視の人がライフも重視したら仕事は増えるばかりだ。

みんなが本当に望んでいるのはどうすれば仕事を減らせるのか? ということだ。


なぜ仕事を減らせないのか?
「仕事以外」というのがなんだか分からなくなっているからだ。

みんな仕事を減らそうと考えて、むしろ新しい仕事を作り出している。

「仕事」とはどうにかうまくいかせたい物事のことだ。
「仕事以外」とは別に結果がどうなっても全く気にならない物事のことだ。

絵を書くとき、「上手に描かなければ」と思えばそれは仕事だ。
書くことそのものが楽しく、結果的に下手でも上手でもさっぱり気にならないのは「仕事以外」だ。


つまり、私の提案はワークライフバランスなどはどこかに置いておいて、
仕事と「仕事以外」のバランスを取ろう、ということである。

あなたにこんな傾向はないだろうか?
・何かをして遊ぶときにも、まず理想の結果を決めてそれを達成するための遊び方を考える。
・自分にとってどうでもいいはずのことで、結果が悪い時に落ち込んでしまう。
・あらゆることが仕事に思える。
・遊ぶことが億劫に感じる。

これらは仕事と「仕事以外」のバランスが崩れている兆候のように思える。

処方箋は
・絶対にうまくできないと分かっていることをする。(たとえば彫刻をするとか100キロマラソンをしようとする、とか。)
・あらかじめ、結果がどうなってもいいと自分に言い聞かせておく。
・これをしたら自分は一体どうなるのか? と感じることをする。
・失敗したところでまったくもって気にならないことをする。(たとえばリンゴの皮を30秒以内に剥く、とか)

といったものが挙げられる。

ポイントは仮に目標を設定したとしても(上記の例で言えばマラソンや林檎の皮むきがそれに当たる)
目標が達成されなかったところでなんとも思わないことを選ぶことだ。

やってみればわかるが、大抵の人にとって「仕事以外」ほど楽しい物は無いはずだ。
それだけ、バランスが崩れているのである。

十分に「仕事以外」を楽しむことによって、何が起こるのか?
それはやってみるまで決してわからない。

いますぐ、仕事以外のことをしよう。
ブログを書くのならば、思いつくままに書いて投稿したあとに
自分が何を書いたのか見てみよう。

「仕事以外」には常に予想外の発見がある。
前からおすすめしている「ソース」という本に
「優先順位をつけるな」ということが書かれている。

なんとなくの理解で済ませていたが、重要そうなポイントなので考えてみることにする。

挙げられているのは
「優先順位と順番は違う」ということ。
これについては、家を作るには土台から作らなければならないが
土台が最も優先順位が高いというわけではないということが例としてあげられている。

わかったようでわからない。

多分大事なことは、土台から作らなければならないとしても、すべての工程をやりとげ
屋根を付けなければそれは家ではないということだ。

「ソース」に直接書かれてはいないが、これを直接人生と望み(願望)の関係に当てはめてみる。

すると、ひどくラジカルで、過激なフレーズができる。

「すべての望みが実行されないならば、それは人生ではない。」



ポイントになるのは多分、それぞれの出来は関係ないということだ。
屋根が藁葺きだろうが、すきま風がはいろうが、それは「家」だ。

でも屋根が「無い」のは、家ではない。



つまり、優先順位の高い順に物事をすすめるようにしよう、というアドバイスに真っ向から反対
しているように見えて、実はそうではない。

実質的に私たちが優先順位という言葉をオーバーに捉えすぎているということが問題だ。
もしくは、人生における優先順位のつけ方を完全に間違えていることが問題だ。


他人から見た優先順位と、自分自身の優先順位は全く違う。

たとえばひどく不細工だが経営の才能のある男がいたとしよう。
彼は必死で女性に好感を持たれるために、体を鍛え、ファッションセンスと話術を磨いている。
だが、客観的に見ればたいしたことはない。とうていモテるとは言えない。
一方で、経営に関しては自らの会社を持ち、もちろんそれなりの努力はしているものの、時間で見れば人よりずっと多く働いているものの、大して苦にも思っていないしすごく儲かっている。

結局この男が一番エネルギーを注ぎ込んでいるのは「女性にモテること」なのだが、
他人から見れば経営を優先しているように見える。


つまり、他人の言う優先順位というのは「どれだけ結果が出せているか」なのだ。

しかし、この男自身にとっては優先順位はぜんぜん違う。
「モテる」ことが重要な彼にとってお金が儲かることはそれなりに嬉しいことだ。
かけるエネルギーに見合っただけのものを得ていると感じている。
そして同時に、自分のような不細工な男が人並みの女性経験を得ることができたことに
ものすごく満足しているのだ。

他人から見ればそれなりにしか見えなくても、このブサイクな男にとっては莫大なエネルギーを消費したにふさわしい大きな幸せが得られている。
もし仮にすべてのエネルギーを経営に集中したとしても、どれだけの大企業に育て上げたとしても、女性に好かれず金目当ての女性しか近づいてこなかったとしたら「エネルギーに見合わない」かもしれないし、どこか不幸な気持ちを抱いたままだったかもしれない。

得意なことに集中し、どれだけ大きな成果を上げたとしても、それは他人から見た評価でしか無いということが往々にしてあるのではないだろうか。


ややこしいことを色々書いたが、結局どうすればいいかということになると単純だ。

「自分が諦めている夢があれば、それに関する行動を試しにしてみるのがいいかもしれない」ということだ。

諦めることにした、優先順位の低い夢。
才能がないから、時間がないから、お金が無いから。
どんな理由であっても、「今できるレベルで」実行することがずっと大きな効果を示す。


自分に関して言えば
「テレビにでたい」という夢があって、ずっと非現実的だという理由で考えないようにしてきた。

でも、「ソース」を読み、久々に思い出したこの夢に関して
動画サイトに自分の動画をアップする、という形で実行してみた。

別に人気動画になるわけでもなかったし、特になんの反響もなかった。
友人に話したとしても大した話題にはならないだろう。

でも、自分にとってはすごく大きな意味があった。
ぽっかり空いていた部分に、粗末ながらも詰め物が満たされた。
それがどれほど自分にとって意味があったか、他人からはわからないと思う。
自分の生きているこの時間が、なんだか少し自分の人生らしくなったという感じ。

まだまだぽっかり空いている部分がたくさんあると思うが、1つ埋まっただけでも
劇的な変化を感じる。


「ソース」には最終的には結果も付いてくるとも書いてある。
(金銭的な成功は最後にやってくるという但し書きもあるが。)

そこはどうなるかわからないが、小さなアクションによってほんの僅かでも可能性を感じることができるようになる。


うーん、順番についてはどう考えたらいいんだろう。

多分、順番というのはある程度どうしようもないものだ。
パスポートを取ってからでなければ海外旅行にはいけない。
でも、海外旅行を諦めてパスポートを取ることだけに専念するのはナンセンスだ。

そう考えると、今出来ることに集中するのは順番の考え方だから悪くない。
ただ出来ることを出来ないと思ってしまうことがいけない。

テレビタレントに今すぐなるのは多分無理だろうが、少なくともYOUTUBEに動画をアップすることならできる。
今すぐテレビタレントにならないのは単に順番の問題だから悪く無いというわけだ。


ま、こんなとこか。
なかなかきれいにはまとまらんなー。