戦後間もなくの昭和21,22年ごろ、私は6歳であった。家には祖父も父もすでになく、母と祖母そして3才下の弟だけが居た。細々とした農業をしていたが、毎日のように食物を乞う人たちが町からやってきた。食料の統制を受けており、コメを売るのを見たことはない。ある日、おばさん2人と子ども4,5人が買い出しにやってきた。祖母は畑から取ってきたばかりで、根っこが泥だらけの野菜を数本投げ出した。子どもらは我先にと跳び付き、泥を払っていた。
ある時は、空の茶椀を手にした乞食がやってきた。そんな時、祖母は、お櫃からご飯を山盛り1ぱい授けていた。うちでは、イモ切干をたくさん作っていて、ある日男2人がやってきて「大籠に一杯売ってくれ」と言われて売ったらしい。すると1時間もしないうちに警察官2人がやってきて「署まで同行願います」と言って母を連れて行った。母がないと、ご飯も作る人もなく、途方に暮れた。しかし、数時間後母は釈放されて帰ってきてほっとした。
当時は町では配給米だけでは、生きて行けずヤミ米が横行していたと聞く。生存権が法律で脅かされていた。