我が県の西部は山間部となっており、標高こそ高くはないが観光スポットとして親しまれた山々が連なる。

初心者でも気楽に登れるハイキングコースの様な山だ。

初秋の穏やかな日曜日、四人の山ガールがその山に入った。

風は心地良く木々の隙間を吹き抜け、少しだけ汗ばんだ首筋を優しく冷ました。

彼女達四人は高校時代の同級生で、卒業後も連絡を取り合い顔を合わせる仲だ。

この日は登山を趣味にする一人が、三人を誘ってハイキング適度の軽い登山を楽しむ予定だった。

ところが、山の中腹に差し掛かる頃に事態は急変した。
四人のうちの一人、中山陽子が忽然と姿を消したのだ。

付近はなだらかな斜面で、転落するような崖もなく、残された三人は事態が飲み込めずにただ中山陽子の名を叫んで周囲を探した。

30分程探すが陽子は見つからず、遭難を懸念した三人はその場で警察に110番通報を入れた。

知らせを受けた県警の警察官数人が現場に向かうが、途中にある古い神社の鳥居の下で、呆然と立ち尽くしている女性を発見する。

氏名を確認すると、その女性は中山陽子だと名乗り、彼女は無事に発見された。

発見の知らせを受けた三人はすぐに下山。
陽子と合流し経緯を尋ねるが彼女にはそれまでの一連の記憶が全く無かった。

保護した警察からも事情を聞かれたが、陽子に記憶はなく、警察官を困らせた。

この件は遭難とは言えず、本人もすぐに発見された事から県警は出動報告を書面にしただけに留まり、騒ぎになることもなく収束した。


「中山陽子」
俺はこの名前に覚えがあった。

あの山で遭難しかけた女性の名だ……

そして今、目の前で万引の容疑で調書を取っている女性の名だ。

中山陽子 23歳 総合病院経理部勤務

至って真面目そうで清楚な雰囲気のこの女性は、ドラッグストアで高級化粧品を万引したとして確保された。

俺には、泣いているこの女性が万引をする様にはどうしても見えなかった。

だが、ドラッグストアで確かに万引を働いたのだ。
そしてまた、万引をした記憶は無いとすすり泣いている。

初犯である事から起訴は無いが、厳重注意をされ、迎えに来た父親と共にドラッグストアに謝罪に向かうと言って署を後にした。

俺は…何かちぐはぐな調書を眺めて深い溜め息を吐いた。

高級化粧品とはいっても、彼女はそれを購入するには充分過ぎる金を所持していた。

それに、中山陽子は殆んど化粧をしていなかった。
素顔でも充分綺麗な女性だ。

何故?……

そんな事を考え始めると切がないので頭を切り替えてその日の仕事を終えた。

20時、夜は少しだけ風が冷たい。

警察署を背に家路に就く俺に誰かが声を掛けた。

「刑事さん……今帰り?」

ふと見ると昼間、万引容疑で調書を取った中山陽子がそこにいた。

いや……服装は同じだが、化粧をしている……

派手目の化粧だが下品さは無い。

「あ……ど、どうも……」

あれ……何だこれ……胸が高鳴る……
妖艶で美しい……

何故か、刹那に魅了された俺は言葉が出ずに立ち尽くしていた。

「ねぇ刑事さん…ご飯行こうよ…」

いつの間にかすぐそばに来ていた陽子が、耳元で囁く様に言った。

おかしい……俺の意思とは裏腹に何故か頷く。

自分の制御ができず、手を引かれるまま陽子の後を歩く……

頭はぼうっとして思考停止だ。

どこかの料理店に入り、ワインと肉料理を注文する陽子を眺めているが、自分では何も出来ない。

明るい店内で見る陽子はさらに美しかった。

化粧の配色も今迄に見たことのないもので、肉を口に運びワインを飲む仕草さえ見惚れてしまうものだった。

「刑事さんも飲みなよ」

と言われ、ワインを口にするが…味など分からなかった。

暫くすると陽子は満足したのか、帰り支度を始めると俺にタクシーが欲しいと言う。

言われるがまま呼んだタクシーに二人で乗り込むと、陽子は郊外のホテルを指定し、ニヤける運転手を横目に俺の手を握った……

タクシーを降りても俺は相変わらずぼうっとして陽子の後を歩くだけだった。
行動に俺の意思は全く反映されない状態が続く。

部屋に入るとベッドに押し倒され、熱い抱擁で意識が遠のく……

俺は薄れゆく意識の中で陽子に聞いた。

「あんた…中山陽子じゃないな…誰なんだ?」

「え?分かるの……私はねぇ……オオヤ…マスミ……」

そこで俺の意識は途切れた。



はっ!として飛び起きた。
やはりホテルの一室のベッドに俺はいた。

見回すと少し離れたソファーに中山陽子がハンカチで涙を拭っている姿が見えた。

化粧はしていない…落としたのだろうか……

「刑事さん……ごめんなさい……私、少しおかしいの……」

まだ少し頭の中がぼやけているが、そのまま彼女の話を聞く。

聞けば週に何度か、数時間ほど記憶が無い事があるという。

「気付くとお化粧してるんです……
私はお化粧しないし、上手くもないのに綺麗にお化粧してるんです……」

なるほど…俺は何かが中山陽子に憑いているのだと漠然と感じた。

そうだ…名前を聞いた……オオヤ…マスミ……

俺は彼女に、その名前に心当たりが無いかを尋ねたが、中山陽子は首を横に振った。

そして、俺は彼女にそれはいつ頃からかと聞いた。

「山で……」

と言ってまた涙を拭った彼女を見て、とっさにベッドから出たが……

あっ!と思い自分の衣服を見たが…乱れは無かった。

ホッとして俺は落ち着きを取り戻し、中山陽子に伝えた。

「君は何かに憑かれているみたいだ。
俺は話しかけて名前を聞いたんだ……

オオヤ マスミと答えた。

あの山で何かあったのなら……きっとそれが原因なんじゃないかな……
どうだろう、調べてみないか?」

俺と中山陽子は休みを合わせて例の山に行く約束を交わし、少し照れながらホテルを後にした。

俺にはこんな時に頼れる友人が一人だけいる。高身長のイケメンで頭脳明晰、そして何より超人的な直感の持ち主、滝くんである。

だが……滝くんは私用で海外にいる。
数週間は戻らないそうなので、今回は俺が何とかするしか無い。

そう、滝くんは不在なのだ。

警察官の俺が憑き物と対峙できるのかは不安ではあるが、一市民が困っているのならば協力するのが警察官の仕事である。

休日、俺と中山陽子は例の山へと向かった。

登山口のパーキングにレンタカーを止め、最低限の飲み物と簡単な食べ物を入れた小さめのバックパックを背負う。

先ずは、中山陽子の発見場所である古い神社へと歩き始めた。

歩きながら中山陽子が口を開いた。

「ねぇ、刑事さん…何で勤務外なのに私に付き合って、こんな所まで来てくれるんですか?」

う〜ん……それを聞かれても、俺にも答えは分からない。

濁して答えることにした。

「俺から見ても、君が万引をするような人間には見えなかった……からかなぁ…」

それを聞いた彼女はニコリとしたが、すぐに悲しげな表情に変わった。

「でも…私が知らないうちにしちゃったんです……万引………」

しまった……返って傷付けてしまったかもしれない……

「だ…だからさ、だから今日ここに来た。

原因を突き止めに来たんだろ?

意識がない間、誰が何をしているのかを知るためにね」

何とかフォローできただろうか……

恐る恐る彼女を見る。

中山陽子はみるみる明るい表情に戻っていった。

実に清楚で育ちの良いお嬢さんだな、と思って、ふと警察署に娘を迎えに来た父親の心情も察してしまった。

「原因……分かるといいな」

彼女は独り言の様に呟いた。

少し歩くと鳥居が見えてきた。

鳥居に辿り着くも、拝殿やその他の建物は見当たらず、随分前に打ち捨てられた様だった。

石碑さえ無く、由来さえ分からない。

俺達は諦めて、当時歩いた山道を歩いた。

山の中腹、中山陽子が行方不明になった場所まで来たが…やはり手掛かりは皆無だった。

俺達は下山を余儀なくされた。

帰りの車中、俺の腹がグゥ~と鳴った。

「あっ!刑事さん、今日はありがとうございました。
あの…何か食べましょう!
お腹減りましたよね!
私、奢ります!」

うむ……腹の虫よ……少しは空気読めよ……

しかし生理現象なので仕方なくファミリーレストランに立ち寄る事にした。

ランチタイムは随分前に終わっており、客もまばらだった。

窓際の席に案内され、料理を注文すると中山陽子はトイレに席を立った。

俺は通りを走る車を眺めていた。

視界の端に人影が映る。

戻ってきたのは中山陽子ではなかった。


あの……独特の化粧を施した妖艶な女だ……

「あんたは……オオヤ…マスミ……」

呆然とする俺を尻目に席に座り見つめられる。

「刑事さん…あんた…何が知りたいの?」

いきなりの質問にたじろぎ、呼吸さえ上手く出来ない……

だが、聞くんだ。話をして情報を得なければならない。

チャンスなんだ。聞け。

「あ…あんたは何者だ……?

中山陽子に何をしているんだ……?」

やっとの事で聞かなければいけない事を質問した。

相手は悪霊かもしれない。
それも真っ昼間のファミレスで対峙するとは想定もしていなかった俺は、質問しただけで全身が汗塗れになった。

オオヤ マスミは少し間をおいて言った。

「うん。あんた可愛いから教えてあげる」

え?何か違う気がしたが、ここは腹を据えて対峙する事とした。

「刑事さんさぁ…真面目なんだねw……

だけどねぇ…私はちょっと悪い男が好きなんだw

だからあの時はあそこまででお終い。

あの娘も真面目だし、可哀想だったからね」

何を言っているのかが分からない。
思い切って聞く。

「オオヤ マスミとは誰なんだ?」

一瞬、蔑む様な視線で睨まれた気がした。

「はぁ……」

深い溜め息のあと、オオヤ マスミは言った。

「大山祇神(オオヤマツミノカミ)って知らない?

山の神様なんだけどさ……

山って退屈なんだよね…だからさ、たまには娘の身体を仮宿にして里に下りて遊ぶのw」

神様?……ますます訳が分からない……。

「現世のルールが良く分からなくて、娘に迷惑かけちゃったかなぁ?
とは思ってる。

でも、あんたみたいな善良な人が居るなら大丈夫だね」

いや……中山陽子みたいな善良な人間を窃盗犯にする神様がいるか?
俺は憤りを覚えた。

「そうですか、分かりました……神様ってんなら……

でも、今すぐに中山陽子という仮宿から出て下さい!」

神様相手に少し雑な言い方ではあるが、今すぐにでも中山陽子を開放して欲しくて、俺は言った。

「やだわ。私には善悪なんて概念はないの。

 欲しいものは手に入れるわ」

開き直りやがった……
いや待て……何かおかしい……

そうだ。中山陽子は化粧品の万引に失敗したはずだ。

それなのに何故オオヤ マスミは化粧をしている?

これは初犯じゃないな……
善悪の概念がない?そんなはずはない。
俺は確かめる事にした。

「あの…大山祇神様、とてもお綺麗なお化粧ですけど、お化粧品はどこから出したんですか?」

「え?そう?褒めても簡単には仮宿は捨てないわ。

この娘には、私の化粧道具は見えない様に術を掛けてあるからねぇ、バッグに入ってても気付かないのよ」

やっぱり……簡単にゲロはいたな。

「それって後ろめたいんですよねぇ。
善悪の概念が無ければ、そんな事をしないと思いますが……」

オオヤ マスミは俺を睨む。
だが、神様相手だろうと引く場面ではなかった。

「大山祇神様が好き勝手をすれば、中山陽子はそのうち懲役刑になります。

刑務所の中で自由な生活が出来なくなるんです。

分かって頂けますか?」

オオヤ マスミは黙って俺を睨みつけている。

ここで注文した料理が運ばれ、俺とオオヤ マスミの前に置かれた。

すると、オオヤ マスミは普通に食べ始める。

「ええ?それは中山陽子が注文した料理ですけど……」

思わず言ってしまったが、チラリと俺を睨み

「食べているのはあの娘じゃ、気にするな」

と一括された。

俺も箸を付け、神様との食事が終わった。

俺が「それで……」と口にした瞬間、オオヤ マスミが口を開いた。

「分かったわ。私なりの善悪の概念で良ければ行動に取り入れる。

要するに娘に迷惑を掛けない行動ね」

半分は伝わった様だ。
だが、仮宿を手放す気は無い様な口振りである。

「あの…仮宿から出る気は無いのですか?」
と尋ねると

「この娘は居心地が良いの。」

と言い放ち、プイと横を向いた。

「それならば、せめて中山陽子本人と直接コンタクトしてコミュニケーションを取ってもらえませんでしょうか……」

俺からの百歩譲った提案に、また俺を睨み付けた。

「分かった」

と答えた。

大丈夫だろうか……と俺の表情に出ていたのだろう。
大山祇神はもう一度「分かったから」と言った。

そして俺はもう一つの質問をした。

「前回、貴女と一緒にいた時、俺はぼうっとして何もできなかった。

でも今日はそうではない……

何でですか?」

そう聞くとオオヤ マスミは少し頬を赤らめ言った。

「あれはね……媚薬に似た術を掛けたの。

刑事さんがその気になれば、普通では味わえない快楽を味わえたのに……

でも拒めば眠りに落ちるの。

振られた気分だったなあ……」

危なかった……神様が宿っていたとしても相手は被疑者だ。
間違いがあってはならない相手だ。

自分を褒めたい気分だ。

俺は気持ちを持ち直し、オオヤ マスミに告げた。
「それでは、先ずはお化粧を落として中山陽子とコンタクトを取って、一通りの事情を説明して下さい」

俺がそう言うと、オオヤ マスミは席を立った。

数分後、席に戻ったのは中山陽子である。

ボロボロと泣いている。

「刑事さん……ありがとうございます……

今、大山祇神さまとお話してきました。

悪い事はしないから、少しの間だけ仮宿にさせて欲しいとお願いされました。」

だ…大丈夫なのだろうか……

「私…承諾しちゃいました。

神様だし……少しの間だと言うので……」

心配ではあるが、本人が了承したのであれば仕方ない。

何かあればすぐに連絡をする様に伝えた。

あれから2週間ほど経って、帰国した滝くんに会った。

自宅にいるというのでおしかけたのだ。

中山陽子と大山祇神の事を一部始終を話すと、興味津々な様子で聞いてくれた。

「神様ってのは日本創世の時代からある者達だからね。

 その時代時代によって物事の概念の違いに合わせるのは大変なんだろうね。

いい体験をしたじゃないか」
と笑っている。

俺は滝くんの笑顔を見て、やっと安心できた気がした。

遥か太古の神話から現代に至る道程、そして大山祇神と中山陽子の今後を想像しながら、滝くんと共に喉に流し込むビールは旨いとしか言えなかった。