2月15日 午前2時すぎ 父がこの世を去った日


久しく詩を投稿できずにいた

躁鬱の状態悪化による心身が最悪だった

でも今日は書かなきゃいけないと

そう思った


父とはそんなに仲が良かった訳じゃない

普通一般の父親像とはかけ離れた人だった

特にお父さんと慕ったこともない


むしろ苦労をかけられっぱなしだったし

社会人として県外に行くため家を出てからは

会話もないし疎遠だった


だけど今日で丸7年。

思い出すのは決まっていつも楽しい思い出

そして笑い合った日々

不器用なりにやってくれた父親の姿なんだ


7年前の昼頃、たまたま代休だった私は寝てて


母から「お父さんが倒れたからすぐに帰ってきて欲しい。状況はまだ分からないけど、後悔するかもしれないから。とにかく来て」と。


頭が思考停止したけど、母が言うから迷わず

その辺の服をつめて帰った

母は看護師。状況が最悪なのは見当がついた


その日の朝、実家で父と一緒に住んでいた妹

は、看護師の試験でバスに乗っていた

でも雪でたまたま携帯の電源を入れていた

いつもは切っているはずの携帯


そこに呂律の回らない父から

「病院に連れていってくれ」

そう掛かってきたそうだ


試験は抜けられず戻ることもできない

だから祖母に電話をして救急車を呼ぶよう指示した

そして父に祖母が家に入れるよう

家の鍵を開けておくように言った


辛かっただろうに意識朦朧の中2階から降りて

鍵を開けれたおかげで祖母が救急車を呼んだ


そして、勤務中の母に電話が行き私のもとに

連絡が来た


病院についた頃に、見たのは変わり果てた

父の姿だった

骨の皮のガリガリ、管が入って、オムツを

はかされていた

視線も定まってなくて会話もまともにできない

指につけた酸素計測器を外そうとしたから

止めた時、もういいったい!そう言った


母はずっと泣いていてもう何年も呼んでなかった

父の名前を呼び続けていた

ぼーっと見て

『あぁここまで来ても愛してるんだな。それは変わらないんだな。母が父のことを名前で呼ぶのを久しぶりに聞きながら何だか安心していた』


そして、母と2人先生に呼ばれて説明を受けた


「もうどの臓器もほとんど機能していません。今日持つかどうか正直分かりません。覚悟をしてください。」的な説明でポカンとしてた


弟はプロボクサーで遠くに住んでいたが急いで帰ってきていた


その内だんだんと父の様子がおかしくなった

私はその場から逃げ出した。無理だった。

見ることなんて出来なかった。

父が苦しそうに吐血するところなんて。


そこから戻った時には意識が完全になくなり

唸っているだけの父

そして、泣いて名前を呼び父の体を摩る母

地獄絵図で私はただ椅子に座っていた

何も言わずただ見つめて椅子に座っていた


弟がついて父を見て

「俺は死なんっていったやんか!おいそんな弱くねぇだろうが!親父!」

泣いて取り乱す弟を初めて見た


妹も試験が終わり着いたがもう会話はできなかった

静かに泣いていた

か弱い声で「お父さん」って呼んでいた


祖母も父の弟も来た


みんなで取り囲んでただ時間だけが過ぎていった


どうして今日が特別な日なのか

それは父の命日だからじゃない


私はみんなが悲しむ中心の中でこう言ったんだ


『もう、逝くなら逝くで早く逝ってくれ。

正直しんどいよ。これが2、3日続くのは嫌だ。

早く解放してくれ、おとん』


最後にかけた言葉は「ありがとう」だった

でも最後に願ったのは『父の死』だった


躁鬱で心身ボロボロで本当にきつかった

だからそう願った

だから一生の後悔になった


死因は肝硬変だが長年のアルコール依存症が

原因だった

アルコール依存症で本人どころか家族もおかしくなっていた。

これは当事者家族にしか分からない

だから書かない


ただ言えることは長年、家庭内別居で

2階の部屋で閉じこもって夜中に暴れる父を

見て見ぬふりをしていたこと


きっと孤独で痛みがあってしんどくて

それを必死に紛らわすために更にお酒に逃げていたことだってこと


半年に1度私の携帯に

「元気にやってるか?無理するなよ」

の一言の文が来ていたこと。

その瞬間だけは父の顔だったこと


辛いことばかりだったはずなのに思い出すのは

楽しいことばかりなのはなぜだろう

父と一緒によく行った場所に未だにいけないのは

なぜだろう

会いたいなといつもそう思ってるんだ


今日は特別な日

私が父の死を願った日

だから今日は父をたくさん思い出そうと思う


一生の後悔を背負って父に語りかけようと

そう思う


『お父さん。私は心からあなたが大好きです。』