ガザを旅立つ日にMさんにある質問をしました。

 「イスラエルとパレスチナが良い関係になるために何かできることありますか?」
 
 彼はこう答えました。
 
 「無い。僕達は彼らから受けた仕打ちを一生忘れることは出来ないだろう。
 四年前イスラエル兵がこの街に攻め込んできたとき、家の中まで入ってきた。銃を突きつけられて家の外に皆出されたんだ。兵士に動いたり、騒いだりしたら撃つって言われた。その当時子供がとても小さかったからずっと泣き止まなかったんだ。絶対に殺されるって思った。
 僕はあの時のことを絶対に忘れることはできない。そしてまたいつ攻撃されるかもわからない。
 実際この街で多くの子供と女性が殺された。友達も殺されたし、おれの兄もその時殺された。そんな仕打ちをした彼らを僕は絶対に許すことはできない。」
 

 僕はその言葉を聞いて何も言えなかった。ただ悲しくて、慰めの言葉も、何を言って良いのかもわからなかったし、何も言えない自分が悔しかった。
 何か出来ることがあると思ってたし、その足がかりとなる言葉を期待してたけど、現実は僕が思っている以上に悲惨なものだった。
  
 今までずっと日本で平和に暮らしてきた僕は、想像を絶する彼の体験談を聞いて、驚くしかなかった。
 
 愛と平和の旅をしよう、って決めて旅してるのに、それらがひどく薄っぺらくて、いざって時に何も言えない、出来ない、ちっぽけなものに思えた。
 実際僕はガザで何かしたわけでもなく、皆に笑顔や元気をもらうばかりだった。
 
 
 僕は出てきたけどガザで出会った皆はまだあそこにいて、次またいつイスラエルに攻撃されるかわからない状況にいる。
 そんなことばっか考えて、速攻伝えなきゃいけなかったのに、実際自分に出来ることがあまりに少なくて、ブログとかフェイスブックで流して何になるんだろうとか、そうしたところでガザのおかれてる状況は何も変わらない…とか思った。
 
 どうしようもなく、圧倒的な現実のせいにして、悲嘆にくれるだけの日々がありました。


 
 
 
 今は、励ましてもらったりしてもうすっかり元気になりました!
 
 こういった現実を受け止めて、知ったうえで、より自分の中の「愛と平和」を深めていこうと思っています。そう思えるようになってから新しいエネルギーが湧いてきました。
 
 そして今彼らに出来ることをしよう、って思ってやっとブログも書けました。

 ガザに行ったことで、平和である今に感謝できるようになったし、素晴らしく尊いことなんだな、とこれまで以上に思います。
 
 実際現地にいるときも悲しいときより、笑っていたり、楽しい時間のほうが長かったし!
 皆みたいに辛いことも苦しいことも受け止めて笑っていようと思います。本当に行って良かったな、って思ってます。
 
 そしてまた必ずガザの皆と再会したいと思います。

 

 そして今、イスラエルは核保有の恐れがあるとして、イランに攻撃を仕掛けようとしています。テロや核保有は確かに防がなくてはなりません。
 しかし、だからといって何の罪もない一般の市民を巻き添えにしてよいわけではありません。実際アフガニスタンやイランでも同様に多くのかたの命が失われたことでしょう。ガザ、パレスチナもそうです。

 バビロンの皆さんにはお願いだからこれ以上、罪のない命を奪わないでほしい。一生懸命に生きている彼らの日常と平和を奪わないでほしい、と切に願います。

 
 尚、今回のブログでイスラエルが多々できて、過去や今もとんでもないことやらかしてますが、一般市民の皆さんは良い人ばかりです。
 ほんの一部のバビロン(支配者)が自分たちの権威や金儲けのために国民を利用しているだけなので、悪者みたいに書きましたが、僕自身はイスラエルが好きです。

 
 なのでイスラエルもパレスチナも平和に暮らせる日が必ず来ると思ってる!

 
 出来ることは少ないかもしれないけど、祈りは、想いは、繋がって伝わるって思ってる。
 

 長々と記しましたが、お読みいただき、ありがとうございます。
 
 戦争反対!っていうのも大切だけど、
 平和賛成!っていうスタンスで、今あるものに感謝して、これを読んでくれたあなたと繋がって生きたいです。
 
 
 
 一緒に愛と平和で世界を変えよう。
 
 まず、ガザがどういうところなのかの説明。わかりやすいHPがあったのでお借りしました。



 1967年よりイスラエルが軍事占領を続けている狭い地域で、東京都23区の約6割の広さの土地に150万人が住む。地中海に面しエジプトとイスラエルと境界を接する。14歳以下の子どもの割合が約45%で、ガザの平均年齢は17歳(同日本44歳)。人口の約7割である100万人が難民で、8つの難民キャンプを抱えている。

 イスラエル軍は2005年にガザ内部からは撤退したが、周囲を完全に管理していて、人も物資もイスラエルの許可なしに出入りができない。2006年6月以降イスラエルによる長期間の完全封鎖、2008年末から始まったイスラエル軍による空爆及び地上攻撃により、援助関係者、ジャーナリストもガザへ入ることが不可能となっている。イスラエルによる攻撃以前から、アメリカ・EU・日本などはガザへの直接援助を中止しており、ガザの人々は国連からの援助としてたまに入るわずかな物資で命をつないでいた。また停電、断水、燃料、医薬品、食料も底を突き、人々の生活状況はさらに悪化している。

 パレスチナの子供キャンペーン参照
 http://ccp-ngo.jp/information-gaza.html

 

 ガザへ行くきっかけ
 
 昨年末にイスラエルを訪れた際に、イブラヒムさんという平和活動をしているおじいさんの家に滞在させて頂いた時に色々なお話を聞かせてもらい、それがきっかけでパレスチナやガザに行ってみたいと思うようになりました。
 パレスチナ自治区には一般の渡航者でも入れる地域があり、ベツレヘムやへブロンという地区へ行きはしました。しかしガザへは誰に聞いても入れないとの事で、行くことの出来ない地域なんだと思っていました。

 
 それからしばらく経ち、エジプト滞在中にMさんというガザに住んでいるパレスチナ人のかたと出会い、僕はガザにについて興味があったので色んな話を聞きました。
 「行ってみたいな。」なんて冗談半分に言ったら、「来る?」って言われたときは驚きました。
 行ってみたいとは思っていたものの、その時はさすがに「考えさせてほしい。」って答えました。
 
  
 ホテルの人には絶対に行くなって説得されたりしました。遊び半分で行って良い所じゃないし、命の危険があるかもしれないし。おれは馬鹿だからこういうときあまり深く考えずに行動してきたんだけど、このときばかりはそういうわけにはいきませんでした。

 だけど、Mさんからガザの話を聞いてどうしてもこの目で確かめたいと思った。そして「大丈夫だよ」っていうMさんの軽いノリがそこまで危険じゃないんじゃないか、って思わせてくれたので決心しました。

 行く前日に、友達が泣きながら「気をつけて」と言ってくれたときは嬉しかったです!でも、なんかもう帰って来ない人みたいな感じで正直尚更ビビりました(笑)



 ガザへ着いてから


 実際行く前はビビッてましたが、そのときの心境とはうってかわって、ガザの中は治安は良かったし、終始リラックスして過ごしていました。
 
 ガザではMさんの地元のラファという街に滞在していました。イスラエルが攻撃してこないかぎり、街の治安は良かったし、外人特に東洋人なんて滅多にこの街に訪れることはないらしい。
 
 皆物珍しそうにおれのこと見てたけど、笑顔で挨拶してくれて、仲良くなった近所のレストランのおじさんに飯をご馳走になったり、食事に呼ばれたり、良い意味で予想外のことばかりで、本当に楽しい時間を過ごさせてもらいました。
 
 ラファの中心部 
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 街は四年前の攻撃で大きなダメージを受けましたが、そんなこと思わせないくらい、活気に満ちていて、大勢の子供達が毎日元気に外を駆け回っていました。皆気さくで笑顔が溢れていて、電気は少ないけど、明るかった!
 
 ガザにいる間はMさんの家にずっと宿泊させて頂きました。奥さんやお子さん達に温かく迎えてもらって、即効家族の一員みたいに接してくれました。

 家で過ごした時間は本当楽しかった!
 みんなでライオンキングのビデオ観たんだけど、もう何回も見たらしく子供達は寝ちゃいましたが、Mさん一人涙流して感動してたり(笑)
 皆で折り紙で鶴折ったり、飛行機折って飛ばしたり。
 子供達と夜遅くまで遊んでたら奥さんに、「もう寝なさい!」と本気で怒られたり(笑)

 Mさんは子供たちが大好きで、子供達もMさんが帰ってくると一目散に抱きついて来て、家にいても全然離れない(笑)
 奥さんとも仲良くてエジプトにいるときは奥さんの自慢話をよく聞かされました(笑)
 家族の素晴らしさを改めて実感させてくれる微笑ましい家族でした。
  
 
 家のマグカップ
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 でもやっぱ楽しいことばかりじゃなくて、街のいたるところで攻撃された後が見て取れた。

 
 建物に空いてる無数の穴は全て銃口らしい。
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 空き地や壊れかけの建物がいたるところにあって、それらは被害にあっった後なんだそう。
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 これらの建物以外にも銃口や破壊された建物が街には沢山ありました。


 夜になるとエジプトとの国境のほうで銃声が聞こえる日もあった。何でか聞いたけど、Mさんもわからないって言ってた、知りたくもないって。時々上空に飛行機が飛んでくるとやっぱり怖いらしい。


 ガザ全体そうなんだけど、最初の説明にあるとおり、
 一日(24h)のうち8hは電気がこないらしい。もちろんイスラエルが故意に止めている。夜間が多く、道は真っ暗で子供達の多くは明るいうちに勉強を終わらせるそう。

 食料のほとんどはエジプトから。国連の食料も届くらしいけど、本当にわずからしい。水道関係は今は整備されてちゃんと確保できるらしい。燃料や医薬品もほとんどがエジプトから。



 ラファ以外にもガザ地区の中心地ガザにも連れて行ってもらい、車で約一時間、その間地元にそっくりな畑道があったり、銃口の後が無数にある街もあった。
 その町はイスラエルとの国境が近いらしく特に被害が酷かったらしい。現在もイスラエルとの国境が近いという理由から皆住みたがらなく、瓦礫の多い閑散としたその光景が石巻とダブって見えた…。
 
 この町の復興はいつ始まるのだろうか?



 ガザの街は中心地というだけあって人やお店も多く、車が行きかっていた。
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 ここの空き地に元は収容所がありましたが、襲撃され大勢の犠牲者を出し、沢山の犯罪者が脱走したのだそう。今は他所に収容所があるらしい。
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 地中海に面した海岸には2年前トルコからパレスチナに援助に来ていた船が狙われてトルコ人とパレスチナ人が殺されたらしい。
 そのモニュメント
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 そして街の壁のいたるところにペインティングされた絵が見れて、


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 どの絵もメッセージ性が強くて、痛いほどに気持ちが伝わってきた。抵抗できない分、こういったところで表現している感じでした。

 意外と警察の前で写真撮っても怒られませんでした。もちろん撮ってはいけないところもありました。



 衝撃的なところが多くありましたが、皆で楽しく過ごす時間のほうが多かった気がします。
 
公園で寝っ転がったり、地元の子とサッカーしたり
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児童会館行って地元の子の作品見たり
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 ガザで一番美味しいアイスクリーム屋さんのアイスは本当に美味かった!

 Mさんあんまり調子が良くなくて頭痛いって言ってたのに、特大のアイス食ってた(笑)
 大丈夫なの?って聞いたら「みんなの見てたらやっぱり食いたくなった!僕はここのアイスクリームが大好きなんだ!」って言って
「うめぇ、うめぇ」言いながら皆でアイスクリーム食った。
 
 子供達がおもちゃ屋行きたいって言ってみんなでおもちゃ屋で遊んだり、トルコの船が襲撃された海岸で相撲とってガチでMさんと勝負して負けたり(笑)
 天気の良い日で、海はとても綺麗でした。
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 悲劇的なことが起こった場所だけど、楽しい時間を家族の皆と過ごしました。



 ガザには日本と変わらない平和な日常がありました。
 あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします。
 
 だいぶ明けましたが、お久しぶりです!みなさんお元気でしょうか?

 僕は今エジプトにいて、明日ドイツへ飛んで2週間ほどヨーロッパに滞在する予定です。自然エネルギーを勉強したいのですが、デンマーク、スウェーデン辺りでお勧めのところあったら教えてください。

 今回も近況報告になるのですが、先日パレスチナ自治区のガザへ行ってきました。なるべく多くの方に今回のブログは見ていただきたいのと、あまり情報が流出しないガザの現状を知っていただきたいと思い記しました。

 かなり複雑な事情を抱えたところと、メディアがあまり的確な報道をしない、できない?のもあり、伝えたいことが山ほどあるので、
 
 
 パレスチナ問題の歴史

 ガザ

 愛と平和

 
 の3回に分けて報告したいと思います。
 なお、今回のブログは見たまま、感じたままを記し、不適切な文や、写真があるかもしれませんが、その場合直ちにコメント等頂けたらと思います。また、漏らしてはいけない情報、写真もあるので全てを記しているわけではありません。



 パレスチナ問題の歴史


 約2000年前、ローマ帝国がユダヤ王国を征服したことにより世界各地にディアスポラ(民族離散)していたユダヤ人たちが、1948年にパレスチナ人の住む地にイスラエルを建国したのが紛争の始まり、
 
 1967年第3次中東戦争(6日間戦争)  
 パレスチナ人が住むガザ、ヨルダン河西岸をイスラエルが占領したことから、問題が深刻化。その後、パレスチナ解放闘争が激化し、パレスチナによるテロと、イスラエルによる弾圧の悪循環が続いた。
 
 1993年、オスロ合意  
 互いに存在を認め紛争の解決を目指す。
 
 2000年10月
 「父親の陰で頭上をかすめるイスラエル治安部隊の銃弾におびえる少年」の映像がガザから世界中に流れる。数秒後、少年は腹部に銃弾を受け父親は重体であった。
 この事件の後、イスラエルのシャロン首相がエルサレムのイスラム地区の聖地ゴールデンモスクに乗り込み、自分達の神聖な土地に足を踏み入れたとパレスチナ人が激怒「嘆きの壁」に石を投げつけ、それに対してユダヤ人が発砲。
 パレスチナ全土に広がり、第二次インティファーダ(民衆蜂起)が起こる、2004年までに双方に1万人の死傷者がでる。そしてオスロ合意は破綻。


 
 英国の三枚舌外交

 20世紀初頭 
 バルフォア宣言  英国はユダヤ人が第一次世界大戦に協力するならばパレスチナの地にユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成するという。
 しかし、ナチスによるホロコーストを止めることができず、建国を支持。

 一方で、
 同時期 
 フセインマクマホン協定  英国はアラブ側を第一次世界大戦で敵国となったオスマン帝国との戦いにパレスチナを参加させるため、アラブ地域に独立アラブ国家を建設すると約束する。
 
 実際はアラブ地域をヨーロッパ各国と分割して支配することを目論んでいた。



 実現されなかったロードマップ

 米国のブッシュ大統領は当初パレスチナ紛争に首を突っ込まなかった。だが、2001年9月のテロにより、対テロ戦争を終結するためにパレスチナ紛争は避けては通れなかった。
 そして「ロードマップ」提唱。
 パレスチナはテロをやめ、イスラエル軍はパレスチナ自治区から引き上げ、パレスチナ自治区に住んでいるイスラエル人も引き上げることを提示。そして2005年までにパレスチナ国家を樹立する道筋示す。
 だが、イスラエル寄りのブッシュの姿勢により、実現されず。


 
 パレスチナ人の嘆き
 
 なぜ、植民地主義の誤りやナチスのホロコーストの誤りをパレスチナ人だけに押し付けるのか。なぜパレスチナ人だけがユダヤ人に土地を譲らないといけないのか。



 分離壁とロケット弾

 近年パレスチナはテルアビブ(イスラエルの首都)や聖地エルサレムの新市街(ユダヤ人地区)で、自爆テロを行いイスラエルはテロ対策として、パレスチナ自治区とイスラエルが自分達の領土と考えている地域の間のパレスチナ側に分離壁という高さ8M程の壁を約700KMに渡って建設した。
 2004年オランダハーグの国際司法裁判所は分離壁は違法とし、パレスチナ側へ損害賠償を命じる(この壁により多くのパレスチナ人が職を失ったりした。)
 しかし、イスラエル側はこれに応じず、このような状況の中イスラム原理主義組織ハマス等がイスラエルにロケット弾を撃ち込みイスラエル市民が死亡、負傷。これに対する報復として2008年にイスラエル軍がガザへ空爆。22日間に及び、1200人死亡。15000人負傷。



 非常に解り辛くて申し訳ないのですが、下図がパレスチナとイスラエルの領土の変遷です。
 黒い範囲がパレスチナで白い範囲がイスラエルです。右上がイスラエルの占領が始まる前、左下が現在です。

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 ナマステ!
 師走も半ば、最近寒くなってきたり、忙しかったりで大変な時期ではありますが、体調には十分きをつけて、良い年末を迎えてください!

 僕は今中東のヨルダンにいます。前回のブログから二ヶ月近くが経ち段々と更新の間隔が空いてきていますが、この2ヶ月何処で何をしていたかをざっと記したいと思います。あまり近況でなくてすみません(笑)

 

 まず、前回のブログではブッタガヤにいましたが、そこからバラナシに渡り一ヵ月半も滞在していました!そんなに長い間何をしていたかというと、観光していたわけでもなく、ガンジス川に浸かっていたわけでもなく、道端に落ちている犬や牛の糞を散々眺めたあげく、それと似たようなカレーを食うという毎日(食事中のかたすみません)。でもなく、


 ヨガにはまって、習い始め、
 
 ジャンベも習い始めた。

 そしてマザーベビースクール、ON THE ROAD in INDIA!

 
 最初からバラナシはマザーベイビースクールのために来たつもりではいたんだけど、ブッタガヤで体調崩して体力ないし、とか言い訳して行くかどうか迷っていたところ、なんと石巻のON THE ROADで一緒に活動した友人に偶然街で出会い、バラナシのON THE ROADでボランティアしているとのこと。キマりました!

 半端ない奇跡、会った瞬間夢でも見てるのかと思った!迷っていた答えはすぐにでました。

 ヨガ、ジャンベ、マザーベイビースクール、まさかのトリプルスクールで毎日忙しく、加えて腹壊したり、原因不明の高熱が出たりで、苦しい思いもしましたが、それ含めて充実した、幸せな日々を過ごすことができました。特にマザーベイビースクールは約一ヶ月間お世話になりましたが、地元の子供たちとの交流が何よりも楽しかった!

 一時期バラナシで旅を終えようか迷いました。これからの旅の期間ずっとここに残ろうかどうか…。

 自分のことを受け入れてくれて、なおかつ必要としてくれたり、家族の一員として迎えてくれた人たちとの出会いがその理由です。

 旅立ちましたが、子供たちの笑顔とバラナシでの日々はおれの大切な宝物になりました。バラナシで出会った皆さん本当にありがとうございました!


 そしてマザーベイビースクールでの活動をon the roadのホームページにのっけてくれるらしいので、良かったらチェックしてみてください。

https://otr.or.jp/

 そしてHPを見てon the roadの活動に少しでも興味をもたれたかた、HPからでも支援できます!インド以外にも、ジャマイカ、石巻での活動も続いております。継続的な支援をいただけたら嬉しいです、宜しくお願いします!



 バラナシを発った後は、窓ナシのバスに夜通し揺られて極寒の中ネパールはポカラへと渡り、ヒマラヤへトレッキングに行ってきました。
 五泊六日と初めての長期でのトレッキングでしたが、大自然をとことん満喫してきました。
 山でたくましく生きる人々や、動物、植物に驚き、感動し、全ての生物が支えあって生きている様を身をもって実感できたことは素晴らしい経験になりました。
 ここまでガチで自然と向き合ったのは初めてで、自然の厳しさの前に、うまく順応することができなかったり、意外と馴染めたり、新しい発見もたくさんありました。

 やっぱおれはこっちだな、自然と共に生きていたいなと改めて感じました。

 
 無事に帰ってきた後ネパールの首都カトマンズへ渡り、3日間を過ごし、ヨルダンへ来ました。
 飛行機で長い距離飛ばしてきたので、「異国」ってものすごく感じます。とりあえず、ケバブ美味すぎで食いまくってるので、元気にやってます。

 今後何処へ向かうかはわかりませんが、年内にもう一度更新できれば良いな…、と思っています(笑)ミャンマーがまだ途中でしたし。

 
 ざっくりとでしたが、インド、ネパールはちゃんと写真付でもう一度詳しく記したいと思います。マサラーマ!
 ご無沙汰ヤーマンです!
 
 インドへ来てから三週間位経つのですが、実ははじめの一週間近くはコルカタで入院していました!タイで風邪をこじらせてインドへ入り、インドへ来てからも一向に調子が上がらず、病院へ行ったら即入院!みたいな(笑)海外旅行保険入っておいて良かった。

 たくさんのかたにご心配をおかけしました、すみません。そして心配してくれてありがとう!かなりしんどかったですが良い経験させてもらいました。
 
 今はブッタガヤで療養中です。もうだいぶ良くなりました!
 
 インドでのスタートダッシュには失敗してしまいましたが、焦らずゆっくり行こうと思います。まずはここブッタガヤで良い感じに悟りを開いてバラナシへ向かおうと思います。





 前回の続き…

 バゴーへ行った後、ミャンマーの誰もが一生に一回は巡礼に訪れてみたい場所「ゴールデンロック」へ行きました。


 キンプンという村を拠点にして向かうのですがここの村が面白かった。ゲストハウスとか宿泊施設全然なくてのどかで良い感じ。
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村の中にある水浴び場?河?へ行って
地元の家族と一緒に水浴び!
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 自然のジャグジー、最高!
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 「ゴールデンロック」へはこのトラックに地元のかたと乗り合いで行きます。
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 麓へ着いてからは徒歩で1時間位急な坂を登ります。これがかなりしんどい。

 途中で出会った地元の子。めっちゃ良い笑顔、元気もらいました!
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 入り口へ到着。一緒に登ったスペインcrewとゆうさん
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 そしてゴールデンロック。今にも崖から落とそうな巨大な岩でした。近くへ行って触ることができます。しかし女性は触れることができません。
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 コウちゃんとゴールデンロックを崖から落としたら国際問題に発展するか?
 何て前日に話してたもんだから、実際に触ってみたときに警備の人にばれないように恐る恐る強めに押してみた。もし落としたら強制帰国?いや、死刑にもなりかねない、今後日本人が一生ミャンマーに入国できなくなってしまうかもしれない。
 なんて想いとは裏腹に微塵も動く気配は感じられず、不思議なくらい岩が重く感じた。やはり神様の偉大な力が働いているのでしょうか?

 

 ゴールデンロック参拝後、古都マンダレーへ向かったのでした。

 マンダレー編へ続く…。