2019.05.22
「リーダーによる倫理の逸脱を招く3つの心理」
https://www.dhbr.net/articles/-/5911

~モラルの崩壊をどうすれば防げるのか~

誰しも道徳的でありたいと望んでいるだろうが、たいていのリーダーは時が経つにつれて倫理観を失っていく。肩書きと権限を得たことで周囲の接し方が変わるなか、人間として真っ当であり続けることは、それほど容易ではない。筆者は、その要因として「全能感」「組織文化的な感覚麻痺」「見て見ぬふりの正当化」の3つを挙げ、これらのダイナミクスに抵抗する方法を示す。


 ある暖かい晩のこと、社外での戦略会議を終えた企業幹部の一団が、地元で有名なレストランに到着した。 

彼らはともに夕食をとるのを楽しみにしているが、CEOがテーブル席の場所に満足せず、変えるよう要求する。「これは、私の秘書がいつも予約してくれる席とは違う」と彼は言う。若い給仕は即座に店のマネジャーを探し、マネジャーは、他に空いている席はございませんと説明する。 

一団は気分を切り替えようとするが、またもやCEOが口をはさむ。「眺めが気に障るのは私だけかい。どうして今日、工事が行われているんだ」と、彼は知りたがる。給仕は説明しようとするが、その甲斐はない。「きみはもっと頑張る必要があるな」と、CEOは返す。緊張感で空気が重たい。 

給仕が立ち去った後、誰かが彼の無能さについて冗談を口にする。CEOはそれで機嫌を直したようで、自分も軽蔑的な冗談で応じる。一団が笑う。 

あなたがもしこの夕食会に同席していたら、CEOに、その言葉遣いと態度には同意しかねると伝えるだろうか。もっとよい言動の範を示すだろうか。それとも、口出しせずにいるだろうか。 

この場面には、倫理の境界線を越えることにつながる、3つの心理的ダイナミクスが含まれている。 

その1つ目は、「全能感」だ。人は、自分には力と特権があるとあまりに強く感じると、礼儀正しい振る舞いのルールが自分には当てはまらないと思ってしまう。 

2つ目は、「組織文化的な感覚麻痺」である。周囲の人が調子を合わせていくうちに、次第に逸脱的な規範を受け入れて体現し始めている。 

3つ目は、「見て見ぬふりの正当化」である。周囲の人が倫理の逸脱に対して声を挙げない。権力者と良好な関係でい続けるといった、より直接的な見返りが念頭にあるためだ。 

企業界でこれよりはるかに深刻な逸脱が生じる際にも、同じダイナミクスが働く。たとえば、日産における背任疑惑、米メディア業界におけるセクハラ告発、フェイスブックでのプライバシーの侵害、金融業界におけるマネーロンダリング、麻薬性鎮痛剤(オピオイド)による中毒に製薬会社が果たした役割などである。 

たいていのリーダーは時とともに倫理観を失っていく、という証拠を見つけるのは、不可能ではないものの困難である。だが、警鐘を鳴らしている人もいる。ウォーレン・バフェットは、株主向け年次書簡の中でバークシャー・ハサウェイの慣行について説明しながら、自身と副会長のチャーリー・マンガーによる次のような気づきに言及している。

「チャーリーと私は……企業によるあらゆる種類の、会計上および運営上の不正行為を目にしてきました。ウォール街の期待に応えようという経営陣の欲求に誘発されたものです。“ザ・ストリート”(ウォール街)を失望させまいとする“他愛のない”ごまかし――たとえば、四半期末の在庫の積み増し、拡大し続ける保険損失の黙認、手をつけてはならない積立金の引き出しなど――から始まったものが、本格的な不正行為への第一歩となりうるのです」 

バフェットの言葉が意味深長であるのは、それが実際に、私たちの大半に当てはまるからだ。 

聖人でも犯罪者でもない善意のリーダーが、罠や落とし穴だらけの場所を急いで前進する最中、時にみずからの道徳的指針を省みるのを忘れてしまう。そのような多数派の人々にとって、道徳的なリーダーシップとは、自身の行動が善意に基づいているのか、それとも悪意に基づいているのかという単純な問題ではない。その中間にある広大な部分で、舵取りをすることなのだ。 

では、自分または配下のチームがモラル崩壊へと向かっていると、どのようにして知ればよいだろうか。以下に、自分自身とチームにおける「全能感」「組織文化的な感覚麻痺」「見て見ぬふりの正当化」を突きとめる方法をさらに示すとともに、それぞれのダイナミクスに抵抗する秘訣をいくつかご紹介する。

●全能感 
モラル崩壊の元をただせば、自分が無敵で、何者にも侵されず、何でもできるという感覚が根本に存在することが少なくない。この感覚は、人を活気づけ、高揚感を与える。 

全能感を持つリーダーにとって、規則や規範とは、自分以外のすべての人のためにあるものだ。一線を越えることに罪の意識は少なく、自分の特権のように感じている。自分にはモラルの境界線を飛び越えたり引き直したりする権利がある、と感じているのだ。 

前述の夕食会を例にとると、今後の大きな展開に関する戦略を練って立案した1日の終わりに、CEOが特権意識を振りかざして横柄な態度をとったのは、偶然ではない。 

全能感は悪いことばかりではない。時として、大胆な行動からもたらされる高揚感が、突破口を開いたり有意義な進歩を遂げたりするために必要とされる。 

だが、職位が高くなればなるほど、それが不利益となる恐れがある。これが特に当てはまるのは、リーダーに現実的な意見を述べようとする、あるいは述べることのできる人が、周囲からどんどんいなくなっていく場合だ。ノーと言ってくれる人が誰もいないリーダーには、問題がある。 

自分が「全能感の頂点」にあるか否かを測る一つの尺度は、自分の決定が称賛、恭順、沈黙のみをもって迎えられるかどうかである。 

全能感への心理的な歯止めとなるのは、自分に欠陥があると認めることだ。自分をありのままに見つめて、欠陥を免れはしないと認識するのは、成熟した能力である。経営トップの地位にいる場合は特に、自分に弱点があることを受け止め、そのことに定期的に思いを巡らすとよい。 

これについては助けを必要とすることもあるだろう。私が会った中で最高の実績を上げている企業幹部には、当人の仕事ぶりや判断に対する本音をいとわず告げてくれる人たちがいた。緊密な関係の同僚、友人、コーチ、あるいはメンターだ。 

リーダーであればこれと同じような、信頼のおける同輩のグループを育み、耳の痛い真実も教えてもらうべきである。加えて、自分の中核チームにおいて「異を唱える義務」も必ず奨励することだ。 

●組織文化的な感覚麻痺 
どんなに信念を強く持つ人であろうとも、認識すべきことがある。みずからの道徳的指針の軸は、時とともに自分の組織やチームの文化へと傾いていくということだ。 

私は、犯罪グループに潜入する警察や軍の部隊と仕事をともにする中で、組織文化的な感覚麻痺によって、リーダーが一線を越える実例を目にしてきた。それはたいてい、さりげないことから始まる。 

潜入捜査官は、新たな文化を知り、馴染む必要がある。仲間内の言葉を遣い、掟に従って行動し、ふさわしい服を着て、溶け込まなければならない。だが、そうする中で、彼らは一線を越える危険を冒している。阻止しようとするギャング集団の文化を真似ているうちに、集団の価値体系にはまってしまうのだ。 

同様の「道徳的拘束」は企業でも生じる。それは一夜にして起きるわけではない。徐々に進んでいくのだ。その間、心理的には、「企業文化に溶け込むこと」と、「自分の価値観に忠実であり続けること」との間でトレードオフが行われている。 

自分の価値観と企業文化の間に齟齬がある場合や、会社が掲げる理想と「実際に何が行われ、報われるのかに関する自分の認識」に相違がある場合、文化的な感覚麻痺は最初のうち、皮肉交じりの距離感や、幻滅による諦念という形をとるかもしれない。だが、心は解決を求めるものである。したがって時とともに、攻撃的な言葉遣いに自分も染まっていることに気づかなくなったり、自分が思いもしなかった振る舞い方を始めたりするのだ。 

組織文化的な感覚麻痺は、倫理的なリーダーシップを最もひどく破綻させる、と私は認識している。なぜなら、気づくのが非常に難しいからだ。 

一線を越えたリーダーたちは、その途上で明確に逸脱を選択したとはけっして言わない。ぬかるんだ道をさまよっているうちに、善悪の基準を見失ってしまったと言うのだ。 

彼らの説明によれば、逸脱の過程で、他者の言葉遣いや振る舞いに無感覚になり、次に自分自身の言動にも無感覚になって、客観性を失っていったという。突き詰めると、自分の中の警鐘が止まってしまったのだ。 

そこで、道徳的拘束のサインに注意することから始めよう。自分を認識していない瞬間や、集団の逸脱した規範に自己が影響されている徴候に気づくのだ。もう1つ、日常的に使える自己診断方法は、いま起きていることについてジャーナリストか裁判官に快く話せるか、自問することだ。 

同時に、このような状況では、自分自身を信頼できるとはかぎらない。全能感の場合と同様に、外部の人の見解をもらうことが助けになるだろう。自覚できない自分の変化に気づいてくれそうな、信頼のおける友人や家族を頼ることだ。また、自分の組織から定期的に抜け出して、みずからの文化を他の組織の文化と比較し、世界は自組織と同じように回っているわけではないことを自覚しよう。 

●見て見ぬふりの正当化 
具体的な利益がかかっていて、捕まるリスクが低ければ、小さな違反を上手に正当化するのが人間の心理というものである。 

たとえば製薬会社の製造ラインで、研究所のアシスタントが慌てており、化粧を完全に落とすのを忘れたとしよう。微量のマスカラが薬のロットの中にたまたま落ちてしまったが、そのロットの量は中規模の国1つに1年間十分に供給できるほどである。ひととき、わずかな不純物は黄色の細い筋を描いたが、すぐに消えて、判別できなくなった。薬は命にかかわる非常に高価なものだが、おそらく無害であろう化粧品が、ほんのわずかだが混じってしまったわけだ。 

あなたならこの件を報告するだろうか。あなたがマネジャーで、どうすべきか密かに意見を求められたとしたら、そのロットを破棄するだろうか。製造の深刻な遅延により、患者が苦しんだり、死に至る恐れさえあったりすると知れば、決心を変えるだろうか。 

膨張し続ける製造予算と自社の脆弱な財政状況が、あなたの意思決定に加味されるだろうか。それとも、上司に相談するだろうか。上司にとって事態がもたらす利害はより大きいため、この件に見て見ぬふりを決め込むかもしれない――あなたはそう知っていても、問題を上に預けるだろうか。 

見返りを得ることと、正しい行いをすることとの間で、選択を迫られた経験のあるリーダーは多いだろう。「これは例外的な状況だ」「今回は、達成するために多少規則を曲げる必要がある」「利益を上げることが仕事で、慈善目的じゃないんだから」――こうした言葉を自他に言い聞かせながら行為を正当化し始めた瞬間が、逸脱への「滑りやすい坂道」への第一歩となる。 

このような最初の逸脱は、積もり積もって大きくなり、悪いことと知りつつ習慣となる。だが、状況のせいでやむを得ない、ひいては許容範囲であるとすら感じ始め、最終的には自分の道徳観の一部となってしまうのだ。 

重大な一線を越えたのがいつかを、正確に断定するのは困難だ。しかし、滑りやすい坂道が始まったばかりのところで軌道修正するのは、正しい道から逸れてフルスピードで滑り落ちている時よりも、はるかに容易である。 

権力はそれ自体が堕落する以上に、周りをむしばむということを、肝に銘じておこう。それは往々にして、倫理の放棄を巧みに正当化した結果である。 

この心理的ダイナミクスに対抗するには、
(1)自分と同僚の双方に正しい行いを義務づける、公式および社会的な約定をつくる、

(2)倫理的な行為を褒賞する、

(3)自分の倫理の境界線を定め、それを他者と共有する、の3つが有効だ。3つ目の単純な例として、自分が利益や快楽の目的では行わない事項の一覧を作成し、それを日々目につきやすいところに貼って、折にふれてチームに見せて思い起こさせればよい。

        * * * 

現実には、多くのリーダーにとって、従うべき真にまっとうな道などない。進みながら道をつくるのだ。 

したがって、倫理的なリーダーシップとは、自分個人の判断によるところが大きい。このため、自分が経験する道徳上・倫理上のジレンマが、一人で抱えるべきもの、あるいは公言してはならないものであるように感じられるかもしれない。同輩には知られたくない葛藤である、と。どう進むべきか悩んだり自信がなかったりするのを認めるのが、恥ずかしいと感じることも時にはあるだろう。だが、これは職業人生の一部であり、率直で開かれた方法で対処すべきであることを、認識する必要がある。 

ほとんどの企業は、何らかの文化的・構造的なチェック・アンド・バランス機能(たとえば社是やCSR方針から、内部告発機能まで)を有している。とはいえリーダーは、自分を含めた人々に倫理の境界線を越えさせる心理的な条件も、心に留めておかなければならない。 

全能感、組織文化的な感覚麻痺、見て見ぬふりの正当化の危険性を理解することは、キャリアの長い道のりの入り口に、警告の標識を立てるようなものである。道のでこぼこは避けられないが、それに対処する用意をしておくほど、清廉であり続ける可能性も高まるのだ。