「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:20-22)

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 極刑の十字架に死ぬイエスは、もう一度私たちに会うとイエスは言う。
 そしてそのときの喜びが奪い去られることはない。ずっとある。
 ここにいう喜びというのは、懐かしい記憶に由来する何かではなく、喜んだ実体験そのものである。イエスに会ったこの喜びが私たちの内側からなくなることが実際ない。
 このことは端的に信仰のことを指す。
 信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
 イエスに会ったかどうか、その喜びが内に満ちているかどうかということからして、信仰とはあるかないかのどちらかしかなく、信仰の成長とか信仰が増すとか、そういうものではないのである。
 だから、イエスからいただいた信仰というのは、例えれば金塊のようなもので、どこで切っても金の地が顔をのぞかせる。他方、金メッキした石ころは一見すると金塊のようでも切ったら石の地だ。
 私たちは、イエスとの出会いによって、一瞬にして石から金塊に変えられるのである。

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 イエス様の平安がありますように!

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