どうも~~!!お久しぶり~~!!
みんな元気してた~~!!?
いやぁ、前回、最期のブログから、もう1年半が経っちゃったね。。。
その前回、これで最後、とか書いて終えたので、本当は書こうかどうか迷っていたのですが、やっぱり書こう!、と思って書きました。
さて、どこから話しを始めようか…。www
小3小4という時間帯は、幼稚園・保育園の延長っぽい小1・2年を終え学校にも慣れ始め、逆に小5・6年の、思春期に突入し周りに影響されやすく、そして自我を確立せんと大人の介入を反発し始める前の、ちょうど過渡期であり、その過渡期に身に付けた事、入ってきた情報知識・影響等が、その人のその後の進んで行く上での大きな指針ともなりうる、転換期の第1歩的な時ではないかと思ってる。
その小4の1年間、オレの担任になった先生というのがとても印象深い先生で、型破りで変わり者だけど、とても人間性豊かで、物事を吟味し知り、子供を「未来」と考え本気で育てぶつかってきて、そして大きな包容力で受け入れてくれる「教育者」だった。
そんな人と小4という微妙で絶妙な時間を一緒に過ごせたという事は、今思えば、オレはツイてたと思う。色んな事を体感させてもらい、沢山の刺激を受け、少年期の「私」という人間形成の上で、大きく影響を与えてくれた人の一人で、今だにその感覚感性は「私」の中でイキイキと生きている・・・。
本当は、小3小4は同じ担任だったのだけど、小3の時の担任がおじいちゃん先生で退任されてしまい、急遽そのあとに、という事でその先生が変わりになってくれた。
その名は、「鳥山敏子」
(鳥山敏子-wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%B1%E6%95%8F%E5%AD%90
)
何が変わり者かって?何がぶっ飛んでたかって?
じゃあまず、始業式。鳥山先生は少し話しをしてから、
「先生と相撲を取ろう!このクラスで一番強いっていうやつは誰だ。よし、はっけよい!・・・」
そんな事からこのクラスははじまった。
記憶もあまり定かじゃないけど、覚えてる範囲で書くから、ちゃんとついてきておくれよ!!
それから学期が始まって程なく、「絹糸を作ってみよう!」という特別レッスン、というか、実体験プログラムが授業と並行しながら行われだした。きっかけは、多分今着ている服は一体どうやって作られているか分かる?、という所あたりから始まったんじゃないかと思う。
それからクラスでは蚕(かいこ)をみんなで飼い始め、お菓子箱のような区切りの付いた箱をクラスの後ろにある二段ロッカーの上に並べ、しかも授業時間の最中も休み時間の最中でも、桑の葉(餌)が無くなれば、生徒は近所の団地(クラスメートが住んでるからそいつと一緒に)の庭に取りに行ったりと、その頃はそれを普通とは違うとも思わず、何か楽しくて、しかも蚕を見るのも・触るのも・飼うのも初めてで、桑の木・桑の葉・桑の実があるという事もはじめて知り、蚕が桑の葉を食べる所を見るのも初めてだし、何しろ全てが初めてだった!
いよいよ蚕が繭玉を作り絹糸が取れる、となって、理科室からビーカーとアルコールランプを持ってきて、煮沸させて絹糸を紡ぎだすんだけど、これが難しかった!他の班はできてるとこもあったかな、ほとんどできなかったんじゃないかと思う。
で、その繭玉から糸を取りきると、中から出てきたのは死んでいる茶色い蚕のサナギで、この蚕が成虫せんがために一生懸命吐き出して作った繭玉から、絹糸は作られているんだ、ということを知った。
また他にも綿の木・綿の実も先生は持ってきてくれて、みんなに綿の実をくれた。この綿の実から木綿糸が作られているんだと、初めて知った。そしてこの綿の実を植えると綿の木が生える、と言われて適当に土に埋めたけど、生えなかった。簡単にはできないんだと知った。
服を作るということはどういうことか。
糸を作るということはどういうことか。
どれだけ手間が掛かっているのか。
何の犠牲の上にこれは成り立っているのか
簡単にできるのではなく、技術・経験を要するんだ。
服って大変なんだね。だから大事に着るんだね・・・。
これら諸々のことを、僕たちは無意識に学び、感じ取っていたと思う。
こういった出来事を通して、先生はいつも、子供たちに感想や調べたことなどをメモ紙のような物に書かせて、全員の感想を全員が知れるようにそれらをまとめて、印刷して配ってくれた。
「このプリントはこの一年間、ずーっと作って、ずーっとみんなに渡します。だからこのプリントを一年間ためて、最後これを製本するとこの一年の記録になります。たておく箱の大きさは、大体メロン箱1箱ぐらいです。」
そういうお話が一杯ありすぎて、思い出して書き出すと、はっきり言って、とてつもなく長くなる!!www
だから今日はこの辺でやめときます。また今度、時間のある時に書き出していきます!
ただ何故、これを書こう!、と思ったのか・・・。
それは、その先生が今年10/7に亡くなったからです。
しかもその訃報をついこないだ、ひょんな事から知ってしまい、それを知った時はさすがに驚きとショックだったのですが、よく読むと葬儀は近親者で行われたそうですが、「偲ぶ会」が12/21の13:30~16:45に行われる、ということで、えーー!もしかして間に合ったじゃん!と思い、行きたいなぁ、と思ってました。
ただその日はどうしても外せない用事が日中入っており、間に合うかなぁ、と思ってました。
何とかその用事を早く切り上げられればと思ってはいましたが、やはり時間はアッと言う間に過ぎ、終わったのが15:50でした。
ここから一旦戻って報告し、それから偲ぶ会に向かうと、着くのはもう18時頃だな・・・。でもやっぱり行きたい!行って、お別れの挨拶とお礼を言いたい!行かなきゃ後悔しちゃう。もういいや!例え終わってて誰もいなくても構わない!その偲ぶ会が行われる会場(学校)に向かってお別れの挨拶をしよう!例え終わって誰もいなくなってても、きっと先生は僕が来るのを待っててくれてると思うから…!
だから、、、行こう!
そう決心して一旦戻り、偲ぶ会の行われた会場に向かった。
始めていくその場所は、事前に地図で調べてたものの、駅を降りてみると17:30、あたりはもう真っ暗で、地図で見た目印なんかも何がなんだか分からない。勘と記憶の地図を頼りに歩くと、あ!これ!地図に載ってた!とか、こっちっぽいな、等と導かれるように歩いていた。するとコンビニに花束を持っている人を見かけ、私服でありながらどこか礼節を感じる服装で、しかも何か用事を終えてこれから帰る風の雰囲気だったので、もしや!と思ってさらに進んでいくと、らしい建物が!あるじゃないか!しかも会が終わってスタッフらしき人が片付けてるみたいで!
「あのー、今来たのですが、遅くなってしまいましたが、まだよろしいでしょうか」と尋ねると
「どうぞどうぞ!」と笑顔で快く迎え入れてくれた。
中に入ると、、、テーブル・イス・お花等はすでに撤去され片付けられていたが、、、なんと!写真が!鳥山先生の写真がまだちゃんと掛かっているではないか!!!
(あーー!ギリギリ間に合った~~!!)
僕は写真に向かい、お別れとお礼を祈念した。
その後、先生が最後に授業を行っていたまんまの状態になっている教室を見させてもらった。
「あーー。先生、やってることはそんなに変わってないんだな」と嬉しくも、ちょっとホッともした。
それから同小学校の懐かしい先生ともお会いして、また同小学校卒の後輩の人とも会い、帰ろうかとなって、さっきの会場を見ると、もう、写真は掛かってなかった…。
(あーー!やっぱり先生、僕が来るのを待ってて下さったんですね・・・!!)
何とも言えない嬉しさが込み上げてきた。
鳥山先生の訃報を知った理由は、これまた本当にひょんなのである。
ある物を探していてなかなか見つからず、やっと見つかり、譲っていただくのでその持ち主に会って、帰りの途中、何故か鳥山先生を思い出してしまった。その人が、どことなく鳥山先生っぽかったなぁ、と思えたからだ。だからといって、血の繋がりは全く無いと思う。その人に会ったのが12/6。
それから何だか気になってて、ふとインターネットで調べたら、・・・!!
その先生への感謝と哀悼を込めて、この特別機構を書こうと思ったのです。
鳥山先生の教え子みんなが、同じ様に感じているわけではないと思うし、賛否両論に分かれやすいとも思う。
でも、子供・未来を真剣に考えて本気で取り組んで実行して、全生命力の全てを注ぎ込んで亡くなっていった人、こんな人なかなかいないよ!
惜しむべき傑人、こういう人がいたんですよ!っていう事を伝えたい!
僕はそんなに言葉の立つほうじゃない。でもみんなが興味を持って読んでくれたり、何となく調べてみて、そして自分の中に何か感ずる物があれば、ぼくはそれでいいと思うし、そうなってもらえればこの特別寄稿も甲斐があったというものです。
長くなってしまいましたが、読んでくれてどうもありがとう。。。
またいつか、書ける時に書きます。
たとえ、読んでくれる人がいなくても・・・!

!!(地元のおじさんか!)
、
、の人もいれば、
…ジャカジャン!!
!
!!
!オゲンコ~~
にするっていうし…、(数取団か!)
は幸せだし…、(は?じゃあ問題ないじゃん!)…
、チャネリングしだすし…、(そうくるか!)
でした~~!!(バカなんです…
。。。)
は、無事?、保たれたのでした
?
。
・もも
・さくら
・・・
が、樹全体を薄赤く色づけている…。
・・・。