オンラインサロンでは
「死生観」に関する話題がでることが度々あります。
それは決して重たい感じではなく
ライトな話題から繋がっていったり
一見重たいテーマでもその中に笑いがあったり。
そういった流れを見ながら
自分の内側にも潜っていくと
ふとした時に過去のことを思い出して
それが今ここと繋がったりする。
そんな瞬間があります。
少し前に思い出したのは
一緒に暮らしていた
ひいおばあちゃんが亡くなったときのこと。
当時の我が家は
7人家族で暮らしていたのですが
なぜかひいおばあちゃんだけが
天理教に入っていました。
毎月、天理教の小冊子が届き
そこに載っているマンガを読むのを
私も姉も楽しみにしていました。
秋になると
「おちばがえり(天理教のイベント)
に参加したい!楽しそう!」
と盛り上がって、両親は苦笑い。笑
だけど
ひいおばあちゃんが
天理教だということに触れるのは
その時くらいで、普段はまったく話題にもならない。
家族の誰もがそのことを忘れている。
意識していない。
後からおばあちゃんに話を聞いたとき
「きっと大変な時があったのだと思う。
そのときに(気持ちを)
助けてもらったんじゃないかな。」
と言っていた。
嫁にあたるおばあちゃんが
そう言うくらいだから、
ひいおばあちゃんは
誰にも勧めることはしていなかったのだと思う。
ただ、自分の中で
信仰を持っていただけなのかもしれない。
真実はひいおばあちゃんの心の中だけにある。
今となってはもうわからない。
でも、きっと
幸せだったのではないかな
ということは感じる。
そのひいおばあちゃんが
亡くなったとき、私は16歳。
お葬式のことを話していて
母親が言った。
「ひいおばあちゃんは天理教だったから
本来は飲めや歌えのお祭りなんだけど
普通にお葬式をすることにしたよ」
と。
その時に、
あ、そういえば天理教だったんだな。
そういえば小冊子届いていたもんな。
と子供の頃のことを思い出した。
そして、お葬式が
『飲めや歌えのお祭り』
ということに
静かに、
とても大きな衝撃を受けた。
死ぬことは悪いことでも、
悲しいことでもない。
天に帰っていくお祝いごとなんだ。
そんな風に考えている人たちがいるんだ。
きっとそれは本当のことだ。
そう思った。
ひいおばあちゃんは大往生で
その日の夕食を食べて
その後そのまま彼女の肉体の「個」としては
永遠の眠りについた。
とても静かで、立派で、美しい「死」だった。
自宅で、家族と親戚で見送った
あたたかい時間だった。
それから時が経ち
最近になって
死生観について考える機会を得ている中で
ふと思い出し、繋がった。
全ては喜びである
このことを知ったのは
強烈に体感したのは
ひいおばあちゃんが亡くなった時だった。
彼女からは
本当にたくさんの学びを得た。
私の人生の師のひとりである。
