lethargicmanのブログ

lethargicmanのブログ

ブログの説明を入力します。

Amebaでブログを始めよう!


久しぶりに文章を書き殴りたくなった


今生きる意味や目標が霞んでしまってあまりやる気が出ない


そこで今まで生きてきた中に何か解決の糸口が見当たるかもしれないと考えて記憶を辿る事にした





私は甲府に生まれた


現存する記憶から推察するに、自我が芽生えたのは3才くらいのようだ


私は今に至るまで苦労無く育った


もっとも辛い、苦しいと思った事は幾度となく有るが、今振り返れば大したことではないだろう


3才の時、私は近所の幼稚園に入園した


両親や祖父母に大変甘やかされて育った私は、乱暴な言葉遣いが全く出来なかった


他人に馬鹿なんて絶対言えなかった


今も少しそれを引きずっていて、あまり直接的な言葉は言えない


でもそのおかげか友達は多かったようだ


私は砂場でより粒子が細かい砂(当時"すべこな"と呼んでいた)を製造する事に熱中していた


その際にザルのような器具を用いて砂を製造しビニール袋に詰めるまでが私の決まりであった


砂のお城や遊具なんて全く興味がなかったみたいでそればかりひたすら繰り返した記憶が有る


この頃から私は祖母と一緒に連日連夜スナックに通っていたみたいだが、まだ記憶がない





4才の時から急に明瞭な記憶が増えた


スナックで歌うのは北島三郎か石原裕次郎の曲、そして踊るポンポコリンであった


しかしながらまだ文字が完全に読める訳ではなかったので、流れる歌詞と記憶との差異に困惑しながら唄っていたようだ


ただこれはそもそも教えられた歌詞が違っていたようで、幼かった私は歌う時は読み方が違うのかなと考えていた


結果として、文字を学ぶよりも計算や迷路が好きな少年になった


秋頃、幼稚園で芋掘り教室が有った


おそらく中々立派なサツマイモを掘る事が出来たのだろう、楽しかった思い出として記憶している


ただその後の収穫されたサツマイモの天ぷらは油っぽくてイマイチだった


幼稚園で食べたものの記憶として、給食とサツマイモとお餅があるけれども、お餅以外はあまり好きでなかったみたいだ


特に給食のミニトマトは相当嫌いだったようで、記憶を辿る限り一度も食べてはいない


この頃、今は潰れてしまったジョイというショッピングセンターで、濃いお子様ラーメンを食べ、ゲームセンターのアンパンマンの車に乗って、ペン太の釣りのメダルゲームをしてハローキティのポップコーン(バター味)を食べて帰る習慣があった


今も薄味よりは濃い味の方が好きだしまたゲームも好きなので、影響は多分に有ったのだろうと思う





5才の時、私は初めて祖父母の家に一人で泊まろうとした


しかしながら結局夜中に寂しくなって、泣き出して祖母に車で家まで送ってもらった記憶がある


そして時期は不確かだが、暖かい日に祖父母の家で飼っていた犬のメリーが亡くなった


実はメリーの記憶はあまり無くて、理由を考えると私はメリーを恐れていたみたいだ


それで自分からメリーにあまり進んで近付こうとしなかったために思い出せないのだろう


ただメリーの死は大変辛かったらしい


今でもそれを思い出そうとすると激しい頭痛に見舞われる


鳴き声も思い出せないのに全く自己中心的な話である


夏に富士山の麓でお泊まり保育が有った


日中は富士山の6合目まで登り、夜は林でキャンプファイヤーをした


お風呂で壁を挟んだ女の子と叫び合った記憶がある


また寝る時に私だけ若い先生と眠った


大変良い思い出だ


秋には体育館でバザーをした


バザーの他にも色々な出し物がなされていてとてもワクワクした記憶がある


また通貨に牛乳瓶のフタを用いる事に大変感激して、毎日やれば良いのになと思っていた


そしてこの頃に、私はゲームボーイとポケットモンスターレッドを買ってもらった


ポケモンの間違い探しの本で一週間熱中していた私にとって、それは本当に待望のプレゼントであった


当時のゲームの記憶はもう無いけれども、64のソフト、ポケモンスタジアム2に登録してある私のパーティーはリザードンとミューツーの2強だった


また手持ちにフーディンが居たので、おそらくは友達と交換しあったのだと思う


ポケモンスタジアムは本当に面白かった


今でもたまにやりたくなる


冬は幼稚園で英語を学んだ


リンゴはアップルと発音すると知って、得意気になって両親に自慢した記憶がある


この頃家では弟が大きくなって、よく父と弟とスマブラやマリオパーティで遊んだ


たまに母が一緒にやる時は、何時にも増してすごい本気になっていた


スマブラでは私がファルコン、父がマリオ、弟がサムスでネスは出てなかったと思う


ヤマブキシティのエレベーターのマルマインの爆発によく巻き込まれたものだ


そして卒園の日、私は究極のスベスベした砂の製造方法を開発した


その方法はザルを使わず、シャベルに付いた砂埃をかき集めるというものだった


画期的な方法、そして今までとは次元の違う砂の完成に私は大変感動した


早速友達に発案して一緒にやろうと思った


でもその時はついにやって来ることはなくて、今もまだ私の頭の中に保存されている





振り返ると幼少期は毎日が楽しくて、そして幸せだった


まあ最後だけ少し後悔が残ったけれどそれも良い思い出だ


またお風呂場のアンパンマンの水道が好きだった記憶がある


もしかすると今お風呂が好きなのはアンパンマンのおかげかもしれない


まだまだ富士急ハイランドでネズミのコースターでせっかく並んだのに身長制限に引っかかって大泣きした(去年まで夢で繰り返し観て泣いてた)思い出とか、父の作った迷路がどうしてもゴール出来なくて大泣きした思い出とか色々とあるけれど、それらもきっと良い思い出だ…


そういえばその頃父は岡○を退社して桂○機に就職した


母曰く、当時の岡○は甚だ激務でこのままでは私と弟の子育てが出来ないと考えて転職したらしい


これが須玉町へ引っ越す転機となる


桂○機は今の須玉町の実家から2~3kmの所にある


またその当時私たちが住んでいたアパートが新たに建て替える事になり、しばらくの間住む場所が無くなる事になった


さらに私は小児喘息を患っていたので、両親は都市の汚れた空気の影響が心配だったらしい


よって父の職場が須玉町、アパートの建て替え、そして空気の綺麗な所という条件が重なって父の須玉町の実家へ引っ越す事となった





ここまでが甲府に住んでいた頃の記憶だ


少し鑑みるだけで色々な偶然が重なって今が有るんだなと思った





幸せな記憶を思い出して心なしか若干気分が良くなった


月曜日にはまだテストが有るので頑張りたい


それではおやすみなさインド(・ω・)ノ