カウンセラー しんのブログ

カウンセラー しんのブログ

神奈川県藤沢市辻堂で心理カウンセラーをしています。僕が日々感じていることを、時間のあるときに、ゆる~く書き連ねていこうと思います。

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例年の事だが、寒さに身を縮め続けるだけの日々をやり過ごしているうちに、気が付けばウグイスが鳴き始めていたりして「ああ今年もそろそろ、覚醒しなければ」と、脳内で赤灯が明滅する三月半ば。
時を重ねるという事、時間が経過するという事実はエントロピーの増大と解釈する事も出来る、とうかそれだけが全てであると実感している訳ですが。
・・・・・年齢を重ねるにつれ、熱がなくなってきて、熱から冷めてきて、そのネガティブな効果として自身の精神内界は混沌としてくる。
それを避ける事は出来ないにしても、せめて新たな刺激で自身を再加熱する努力は必要なのか・・・・・・・これは何歳になっても好奇心を失わない人や新しい事に挑戦し続けている人達が、若々しいという事実が証明してくれていますね。

久しぶりに近所を歩いてみる、ここ数年、徐々に減ってきていた各家庭のクリスマスイルミネーション、電気代の値上がりに比例してという事なのでしょうか。
まああれは自己顕示のような文脈で語られたりしますので・・・・・顕示欲はスマホ一つあればいくらでも満たせる時代。
夕方、日が暮れ始めると風景がセピアに変色する、そしてそれは日没と共にモノクロに塗り替えられ、かすかな電光に照らし出される、郷愁が影絵のようにうっすらと照らし出され、それは子供時代を想起させる、情景へと。

自身の未熟さを受け入れられた時であったり、相手が尊敬に値する人であったりした場合にのみ「叱られた」と清々しく言えるのかもしれませんが・・・。
怒られたという言い方もるし、叱られたという言い方もある、躾や指導、怒るのか叱るのか。
怒るとは感情に基づいていて、叱るは理性に基づいているでしょうか、叱る場合は相手が納得しなければ成立しないし、納得してもらう為にはある程度以上の論理展開が必要、論理は知性由来ですね。
信頼がないと聞く態勢は取れない、聞く態勢が取れている相手を納得させなくてはならない、叱るという知的行為。

ブタクサ花粉でくしゃみが出て、それがよく言われる後鼻漏から喉が痛くなった、くらいに軽く考えていたのだが、どうも様子がおかしいような気がする、という事実を日々こなさなければいけないタスクの裏にそっと隠していたある日、気が付くとどうも、ただの花粉症という訳ではないような身体の状態。
筋肉や関節の痛みであったり、喉を通りこして気管のあたりのひりつきであったり。。
そんな中、人目を避けてそっと検温してみると、高熱と共に見て見ぬふりを続けていた現実が差し迫ってくる、今までの逃避的努力の一切が徒労に終わり、恐怖に支配される瞬間。
朝一で、時々健康診断でお世話になっている内科に、カスカスの声で電話を入れ、発熱外来を受診させてもらう、病院に辿り着くのも一苦労。
結局はコロナもインフルエンザも陰性で、風邪をこじらせたという診断になったのだが、気管支がイッちゃっていて咳がひどい、横になると余計に咳が出るので睡眠もままならず、という状態。
もう治って日常に戻りましたが、あらためてマスクや手洗いの大切さを実感させられました。
受診時、先生の肌感なのかある程度の統計なのかは、ボーっとした頭でお聞きする事ができませんでしたが、今、コロナ2割、インフルエンザ4割、僕のようないやーな感じの風邪が4割、とおっしゃっていたような、いなかったような。
インフルエンザで学級閉鎖とかニュースでもみますし、しかしなぜか、マスク人口が、特に街中ではなく郊外とかスーパーの買い出しの時とか、マスクしていない人に遭遇する確率が非常に高くなってきているよう。
コロナじゃなくても、インフルエンザだってイヤですよね、罹りたくはない、薬があるとつてもあれもかなりきついですから。


 

信頼というのは信用の彼岸に虚構として存在する単なる概念としての理想郷なのかもしれない、というのも、信頼≒裏切りとでも言い放ったらいいか、どうもこの二つは表裏一体というか、信頼には裏切りがもれなくオマケとしてついてくるかのように思え。
だからまあ、自分を守りたいという想いが強い場合は、信頼などと言う極端な思い込みは排除して、信用をすればいいのでしょう、信用は客観的事実に基づいていますから。
社会的関係を取り結ぶ時に、最も必要ななのは、その人が信用に値するかどうかという、この一点に尽きる、という、極論でしかありませんが