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この鼻という話。
鼻がとても長い僧侶が、その鼻を気にしていました。
ある日その鼻を短くすることができたのですが、
結局は長い鼻のままのほうが気楽だったという話。

この僧侶、なかなかの高僧でして地位が高い。
そして何より気位も高かったのです。

生まれて長らく自分の鼻を気にしていながらも、それを悟られないように気を配っていました。
鼻を短くする方法を知ったときも、自分からそれをやりたいとは決して言いません。
弟子がその気持を汲んで、その方法を試してみないか?と聞かれるまで乗り気ではないという素振りを見せていました。

そして、遂に鼻が短くなりました。
僧侶はとてもとても気分が晴れて、長年の苦労が報われ、晴れ晴れしていたのです。
ですが、今まで僧侶に対して気遣ってくれていた下の者が、なにやら僧侶を馬鹿にしたような言動をとるようになってしましました。

僧侶は最初は我慢していたのですが、ついに堪忍袋の緒が切れて辺りの者に当たり散らしてしまいます。
そうこうしているうちに、治療の効果が切れて、鼻が元の長さに戻りました。
僧侶は長年忌々しく思っていた鼻がとても愛しく思えたのです。

この話、読んだときは意味が分かりませんでした。
なんにも変わってない話。つまらない。
単刀直入に行ってしまえばこういうことです。

ある読み物では芥川は羅生門や鼻を面白い話として書こうと思ったそうです。
羅生門は分かります。
すべての人間がただ、生きるためという欲求が規範、理性などを押し切ってしまうという爽快感があります。

ただ、鼻においてはつまらないと感じました。
これは感受性の問題か、時代背景の問題か。

少し時間を置いて考えて見ました。
僧侶は一貫して、自尊心を守っていたのです。
整形手術などが発展した現代でも、整形手術を揶揄するような意見は多くみられます。
そういった、人と比べて、劣等感を感じ、人と同じになったとしても、根底にある自尊心の拠り所が他者の目であることを揶揄したのではないでしょうか。

今は昔よりもその目は弱くなり、多少の自由を感じることもありますが、やはり気になるものは気になるものです。
いつまでそれを気にするかというものについて考えることもできるのではないでしょうか。
簡単に羅生門の内容をまとめてみよう。
「行きどころを失った下人(登場人物)は、生きるために仕方なく、老婆を襲う。」
という話だ。

結論から言うと、この話は非常に嫌な終わり方だ。
だからこそ、僕にはこう生きたいという理想のようなものを見出すことが出来た。

何故、嫌な終わりというのかというと、

まず物語の冒頭では、下人は行き場を失い、盗人になるしか生きてゆく方法はないと追いつめられるのだが、自らの正義感により、揺らいでいるのだ。

そこで、偶然死人の髪の毛を集める老婆を見つけてしまい、死人を弄ぶようなことを許すものか!と正義の炎を燃やす。

しかし、生きる為には、その老婆の持ち物を奪うしかないという感情が芽生え、追い剥ぎのような真似をして、行方をくらます。

一度は正義の炎を燃やしたにも関わらず、悪に身を染めてしまう。
この悪に身を染めてしまうというオチに僕はひどく落胆した。
だから、嫌な終わり方だと思ったのだ。

しかし、考えてみると登場人物は皆が、生きるために仕方なく行動していたのだ。

老婆は、死人の髪を集めてカツラを作り、そしてそれを売り飯を食おうとしていた。
そうしなければ、餓死してしまうほど追い詰められていたのだ。

下人もまた先述したように、行き場を失い、明日食うものにも困っていた。
だから、老婆を襲い、生きてゆく道を選んだ。

生きるために仕方なく、やりたくない事をしてしまう。

これはすごく嫌なことだ。

僕の理想では、皆が幸せであって欲しいのだが、それは追いつめられていないからだろう。

僕がもし追い詰められたら、嫌だ嫌だと思いつつ、不本意な行動を取るのかもしれない。

それが嫌だからこそ、別の生き方を選べるようになりたいと思う。
朝食のウィンナーが美味かった。

缶コーヒーが美味かった。

飯を食うのは楽しいな。