まぼろしの居場所

まぼろしの居場所

ことばのたどりつくさき

子どもの時分には

「風の又三郎」も読んでみたし

教科書には「やまなし」も載っていたから授業もあったし

「注文の多い料理店」はなかなかびっくりとしたこともあった。

 

「雨ニモ負ケズ」は行きがかり上、暗唱できたときもあったし

思いきって全集を借りて出来る限り多くの作品を読んでみようと

思ったこともあったのだが

 

どうしても、宮澤賢治を、みんなのようには好きだと思えない。

 

むしろ、読めば読むほど、苦手意識が強くなってしまう。

 

なので

尾形亀之助を知ったあとでは

もう、私は宮沢賢治はいいや、と一線を画することにしたのだった。

 

というわけで数年はもう賢治に悩まされることもなく

生きてきたのだったけど

ちょっと前に

野矢茂樹著 『そっとページをめくる』のなかに

 

土神と狐

 

をどう読むかがちょっと書かれてあるとみて

(それがなんだったのか、もうみつけられない)

さっそく借りて読んでみた。

 

  たぶんふつうに読むと、土神が狐に嫉妬して嫉妬のあまり狐を殺してしまう、

 そういう話に読めてしまうんですね。でも、そんな情痴事件として読んでいいのか、

 というのが、この作品を読むときの私の問題提起です。人によっては、小説をどう

 読むかは読者の勝手だと言う人もいるかもしれません。でも私は、もちろん読者に

 ゆだねられる部分もあるけれども、その作品が差し出しているものをきちんと受け取る

 ことがなによりもまず基本だと思うのです。

 

 それには氏のいうところの相貌分析を駆使して読むように、とある。

 

‥‥‥それから首を低くしていきなり中へ飛び込まうとして後あしをちらっと

  あげたときもう土神はうしろからぱっと飛びかかってゐました。と思ふと

  狐はもう土神にからだをねぢられて口を尖らして少し笑ったやうになったまゝ

  ぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れてゐたのです。

  (中略)

  それからぐつたり横になってゐる狐の屍骸のレーンコートのかくしの中に

  手を入れて見ました。そのかくしの中には茶いろなかもがやの穂が二本はひって居ました。

  土神はさっきからあいてゐた口をそのまゝまるで途方もない声で泣き出しました。
  そのは雨のやうに狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとして

  うすら笑ったやうになって死んで居たのです。

 

 

私も、氏のとおり

この話を嫉妬のあまり殺してしまった、というよりも

嘘をついている狐への怒り、から起こってしまったと、考えていた。

 

でも、私がいちばん気になっているのは

狐の死に顔である。

 

氏は、これは作者の視点からの相貌だという。

 

賢治は、狐はうっすらと笑った顔で死んだ、ということを

どう、読み手に感じてほしかったのだろう。

 

私は、どうしても狐の顔は

苦しみでも恐怖でもないけれど

決して安らかとか、ホッとした、とかそんな描写ではないと

思ってしまう。

 

ただ、首がぐんにゃりとしてうすら笑いにみえるのは

土神にからだをねぢられて首がぐんにゃりしている物理的なものじゃないのか‥‥‥

 

ただ、「そう見えた」だけで

うっすらと笑っている顔は狐の気持ちを表わしているわけでは

ないようにしか、思いたくないのだ。

 

こうなると

書き手が差し出したものも、なにもあったものじゃあない。

 

差し出されたものを

受け取るどころか

拒否してしまう。

 

賢治の作品の多くに

私は同じような感覚を持ってしまうせいで、苦手なのだな、とわかった。