自分について8.1PSY始動)) | 記録と想い

記録と想い

~記憶がないということ~

解離性健忘症(全生活史健忘症)になって

8年分を無かったことにする。取り繕わない。今の自分のするがまま言うがままを押し通す。

相手に合わせない・・自分の本心をおさえつけない。相手の事情状況とか「忙しいんだろうな」「申し訳ないな」「その他相手への配慮気遣い・・・」無理や背伸び取り取り繕うことでその場をスムーズにする上っ面の配慮はしない。「言葉使い」くらいはできる範囲で。
自分の「素」をみせていく。「話がまとまらない長い」とか関係ない無理して合わせようとして「出来るじゃない」って勝手に思われてもそうなることで「こっちの現実は」どうなってきたか?

まずは「赤ん坊が独り暮らしをする狂った現状」「結局どんな状況にあるのか」「どんな精神状態にあるのか」「心や気持ちは?」を「「見える化」」して 共有できる要素をつくる 「そういう気持ちになってもらうことが大切」


「配慮」とか「気を使う」とか出来るようになるのも必要なのはたぶん間違いではないだろうけど、「話が長い何が言いたいかわからない」等、それはどこかに「普通じゃん」って気持ちが有るからの発言とする。

その結果どうなろうと、それが「現実」「事実」。

「感謝」はしてきたしするししていく。その想いは忘れない。それと自分の「あるがまま」は別のところにある。

これは少なくとも医療や福祉の方には妥協しない。その他一般の人とは、ある意味これまで出来ること試行錯誤はするが、「基本」接触接点を極力しない。ただでさえないのが更にきつくなるのは仕方ない。全てとは思いたくないけど、「ホッとする」ヒトがほとんどだろうな。😢😔

「ワケわからないなりの仮面」をつける。という感覚でいく。でないと外に出て「買い物」も成り立たなくなるから。仕方なく。

まずはあの日にたちかえる。

「自分」の病気の自分のcaseについて、その現状や、ひょっとしたら「深刻さ」を 見よう、なんとかみてくれている存在は少ない。

改めて「「個人の見解」」
「映画もそうだけど特にテレビ、雑誌?本」での「記憶喪失もの」は、ほぼその全ては作り話としか思わないので。「ほぼ」とは「過去に遡り」ひょっとしたら1つくらいは深刻な現実を取材報道があったかもわからないのでそう記します。またcaseごとに色んな症状があるのでそれも今の自分なりに理解もしています。が、それでも、特に「テレビ公開捜査?ものとか」「記憶はないけど事実上の社会生活はできる」設定は 「ゴダイユースケ」には全く当てはまらない。し、過去マスメディアが接触してきたけど、今後も一切関わるつもりがないのは、「本当の症状と、その持ってしまっている障害について本気で真摯に取り組むことはないと心から判断しているから。決めつけられるだけの都合のよいドラマや番組しかないから。ネタ。これはテレビだけにあらず。雑誌もひどい。それも見てきた。」

唯一 一部の表現にリアルさがあるのは「泣くなはらちゃん」。たまたま偶然でしょ。「こんなのあるわけない」の誇張がたまたま自分の状態に近い感じがあるってだけ。